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双貌のローザリア  作者: あかまる
第2章 痕跡

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第23話 闇を払うと決めた夜

 日が沈んだ入り江は、昼の熱をなお砂の奥に抱いていた。


 記憶祭の二日目。ベルメモリーズの町はまだ祭りの余韻に満ち、宿という宿は旅人で埋まっていた。

 三人がようやく確保できたのは、浜辺に張るための天幕一張りだけだった。


「天幕、一張りだけ借りられました」


 メグが少し息を弾ませて戻ってくる。


「設営は任せろ」


 ロッシュが腕を回して肩をほぐし、借りてきた支柱を担いで、にやりと笑った。


「……それと、天幕はお前らが使え」


「ロッシュ……」


「気にすんな。星空の下は嫌いじゃねえ」


 ロッシュが慣れた手つきで綱を張り、メグは草地の小石を拾って寝床の地面をならしていく。ローザは布地の耳を折り、縫い目の張りを確かめながら手を添えた。


「孤児院時代の野営学習以来か。折角だ、楽しもうぜ」


 ロッシュが満面の笑みを向けると、ローザとメグも小さく頷いた。


 *


 夜の野営地。


 焚きつけは松脂を多く含んだ枝。鍋は借り物で、塩はひとつまみだけ。乾いたパンを貝の煮汁でやわらげ、燻製の端を割って火にかける。粗い香りなのに、不思議と腹の底が落ち着いていった。


「――ネイ様もここに来たんですかねぇ」


 メグが火越しに囁く。


「ベルノアへ向かったのなら、ここは通り道だ」


 ロッシュが鍋の魚を口に運びながら答えた。


 焚き火がひとつ鳴り、火の粉がひとつ暗い空へ昇る。飛んだ火はすぐに消えたのに、そのあともしばらく、三人の視線は空のほうを向いたままだった。


「……昔さ」


 ロッシュが不意に口を開く。


「孤児院の野営学習、覚えてるか?」


 ローザは頷いた。覚えている。忘れようがない。


「天幕の中でロッシュが“怖い話”を始めて――最後はみんな眠れなくなった夜」


 ローザは少しだけ笑みを含ませて言った。


「怖い話って、結局、オチがしょぼいやつですよね」


 メグがくすっと笑う。


「しょぼくねえって。あれはちゃんと怖い」


 ロッシュは即座に言い返した。


「だってよ、“森の奥で光る目が二つあって――”って話で、あのときのローザ、剣抜きかけてたじゃねえか」


「……抜いてない」


 ローザは淡々と返す。


「鞘に手を置いただけ」


「それを“抜きかけた”って言うんだよ。まあ、ネイは完全に抜いてたけどな」


 ロッシュが笑う。


 メグは鍋を覗き込み、立ちのぼる湯気に前髪を少し濡らした。


「その話、私、好きです……あのとき、ローザ様は私を守ろうとしてくれました」


「お前の姉みたいなもんだからな。ローザは」


 ロッシュが笑いながら目を向ける。


「妹よ」


 ローザが真面目に言い直すと、メグは嬉しそうに頷いた。


 しばしのあいだ、火の音だけが夜を埋めた。食事もほぼ終わり、三人がそれぞれ火を見つめていたときだった。


「話しておきたいことがある。――総将の手紙のこと」


 ローザは懐から封筒を取り出し、一度、静かに息を整えた。


「……総将は、アルザス暗殺の命を受けていたんじゃないかと思う」


 焚き火が小さく弾けた。


 沈黙が落ちる。遠くでは、波だけが変わらぬ呼吸で寄せては返していた。火は消えていないのに、その周りの空気だけがひときわ重くなる。


「……そんな、馬鹿な。そんなこと、誰も得しねえ」


 最初に口を開いたのはロッシュだった。拳を膝に置いたまま、指の節が白くなっている。顔を歪め、視線を火へ落とした。


「斬ったのは事実。手紙が、それを示している」


 ローザは炎を見つめたまま言う。


「でも、当のアルザスは生きていましたよね」


 メグは膝を抱え、視線を少し落とした。


 そして火が鳴り、火の粉が宙に舞う。


「獅帝戦団には、私たちの知らない“闇”があるのかもしれない」


 ローザの視線は、なお火の中にあった。


「……どうして、そう思う」


 ロッシュが顔を上げる。


「灰色の鷹。総将のための部屋が用意されていて、合言葉で鍵を受け取れるなんて……まるで諜報員のやり口」


 ローザは封筒の端を指先でそっとなぞった。


「確かに……変ですよね」


 メグが静かに頷く。ロッシュも、それについては否定しなかった。


「獅帝戦団の“闇”を知りたい。そして、その“闇”を――払いたい」


 ローザは炎の中心を真っ直ぐに見据えた。


「……でも、私たち、もう獅帝戦団じゃないですから。どうしようもないです」


 メグがふっと肩をすくめる。


「メグの言う通りだな」


 ロッシュは笑おうとして、途中で息を吐き直した。


「でもさ」


 ロッシュは木匙で鍋の縁を軽く叩く。乾いた音がひとつ、夜気の中へ溶けた。


「どうしようもねえ、で終わらせるのは……ちげえ気がする」


 ローザとメグが目を上げる。


 火の向こうにあるロッシュの目は、冗談のない、まっすぐで誠実な光を宿していた。


「俺ら、自由だろ。もう命令には縛られてねえ。だったら、“知る”自由もある。……知った先で、何かできるかもしれねえ」


 珍しく、ロッシュはまっとうな理屈を口にしていた。


「知るって、怖いです。でも……知らないままのほうが、もっと怖いかもしれない……です」


 いったん否定したメグも、小さく頷いた。


「育ってきた場所に“闇”があるなんて……俺は嫌だね」


 ロッシュは低く言葉を継いだ。


「俺もローザと同じだ。“闇”を取っ払いてぇ」


 ローザの胸の奥で、何かが静かに鳴った。グロワールの手紙の言葉が、焚き火の熱で温め直される。


 ――命令だけを信じるな。

 ――自分の意思で、自分の正義を進め。


「……ありがとう」


 ローザは小さく言った。ロッシュは照れ隠しのように鼻を鳴らす。


「礼はいい。……ほら、食え。腹が減ると余計なこと考える」


 メグが笑った。


「ロッシュ、結局それですね」


「結局それだ。腹は正直だからな」


 少しだけ笑いが戻る。そうして夜は、静かに更けていった。


 火を落とし、灰を寄せ、砂をかぶせる。焚き火は跡を残さない。


 けれど、今夜の会話だけは、それぞれの胸の内に確かに刻まれた。


 *


 空がまだ薄い青をたたえたまま、東の端から少しずつ茜に滲みはじめる。


 ロッシュはむっくりと身を起こした。肩には夜露が置かれている。


「……あー、さむっ」


「さすがに一晩中外で寝るのは体に堪えるかもね」


 メグが笑いながら言い、弓弦を張り直して矢羽についた露を指先で払った。


 ベルノアへ――向かう。


 三人は、獅帝戦団の“闇”を明らかにする。そう心に定めていた。


 焚き火の跡は灰の匂いだけを残し、波は今夜もまた灯を受け入れるために、静かな面を整えはじめていた。


 *


 アンブラージュ城、白百合の尖塔の上階。


 街は新たな女王の誕生を祝い、祝祭の音に満ちていた。


 その喧騒から切り離された静かな一室で、ひざまずく影が短く報告する。


「報告。向かった先はベルノアとのこと」


 座していた男は、ゆっくりと瞼を上げ、わずかに息を吐いた。


「ベルノア……か。接触は厳禁。監視継続を伝えよ」


「了解」


 扉が閉じられ、鐘形の金具がかすかに鳴る。


 ソレイユは窓の外を見下ろした。白と金に染まる祝祭の都を、ただひとつの面のように見つめる。


 祝福の光のただ中で、ひとつの闇が、静かに動き始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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