第23話 闇を払うと決めた夜
日が沈んだ入り江は、昼の熱をなお砂の奥に抱いていた。
記憶祭の二日目。ベルメモリーズの町はまだ祭りの余韻に満ち、宿という宿は旅人で埋まっていた。
三人がようやく確保できたのは、浜辺に張るための天幕一張りだけだった。
「天幕、一張りだけ借りられました」
メグが少し息を弾ませて戻ってくる。
「設営は任せろ」
ロッシュが腕を回して肩をほぐし、借りてきた支柱を担いで、にやりと笑った。
「……それと、天幕はお前らが使え」
「ロッシュ……」
「気にすんな。星空の下は嫌いじゃねえ」
ロッシュが慣れた手つきで綱を張り、メグは草地の小石を拾って寝床の地面をならしていく。ローザは布地の耳を折り、縫い目の張りを確かめながら手を添えた。
「孤児院時代の野営学習以来か。折角だ、楽しもうぜ」
ロッシュが満面の笑みを向けると、ローザとメグも小さく頷いた。
*
夜の野営地。
焚きつけは松脂を多く含んだ枝。鍋は借り物で、塩はひとつまみだけ。乾いたパンを貝の煮汁でやわらげ、燻製の端を割って火にかける。粗い香りなのに、不思議と腹の底が落ち着いていった。
「――ネイ様もここに来たんですかねぇ」
メグが火越しに囁く。
「ベルノアへ向かったのなら、ここは通り道だ」
ロッシュが鍋の魚を口に運びながら答えた。
焚き火がひとつ鳴り、火の粉がひとつ暗い空へ昇る。飛んだ火はすぐに消えたのに、そのあともしばらく、三人の視線は空のほうを向いたままだった。
「……昔さ」
ロッシュが不意に口を開く。
「孤児院の野営学習、覚えてるか?」
ローザは頷いた。覚えている。忘れようがない。
「天幕の中でロッシュが“怖い話”を始めて――最後はみんな眠れなくなった夜」
ローザは少しだけ笑みを含ませて言った。
「怖い話って、結局、オチがしょぼいやつですよね」
メグがくすっと笑う。
「しょぼくねえって。あれはちゃんと怖い」
ロッシュは即座に言い返した。
「だってよ、“森の奥で光る目が二つあって――”って話で、あのときのローザ、剣抜きかけてたじゃねえか」
「……抜いてない」
ローザは淡々と返す。
「鞘に手を置いただけ」
「それを“抜きかけた”って言うんだよ。まあ、ネイは完全に抜いてたけどな」
ロッシュが笑う。
メグは鍋を覗き込み、立ちのぼる湯気に前髪を少し濡らした。
「その話、私、好きです……あのとき、ローザ様は私を守ろうとしてくれました」
「お前の姉みたいなもんだからな。ローザは」
ロッシュが笑いながら目を向ける。
「妹よ」
ローザが真面目に言い直すと、メグは嬉しそうに頷いた。
しばしのあいだ、火の音だけが夜を埋めた。食事もほぼ終わり、三人がそれぞれ火を見つめていたときだった。
「話しておきたいことがある。――総将の手紙のこと」
ローザは懐から封筒を取り出し、一度、静かに息を整えた。
「……総将は、アルザス暗殺の命を受けていたんじゃないかと思う」
焚き火が小さく弾けた。
沈黙が落ちる。遠くでは、波だけが変わらぬ呼吸で寄せては返していた。火は消えていないのに、その周りの空気だけがひときわ重くなる。
「……そんな、馬鹿な。そんなこと、誰も得しねえ」
最初に口を開いたのはロッシュだった。拳を膝に置いたまま、指の節が白くなっている。顔を歪め、視線を火へ落とした。
「斬ったのは事実。手紙が、それを示している」
ローザは炎を見つめたまま言う。
「でも、当のアルザスは生きていましたよね」
メグは膝を抱え、視線を少し落とした。
そして火が鳴り、火の粉が宙に舞う。
「獅帝戦団には、私たちの知らない“闇”があるのかもしれない」
ローザの視線は、なお火の中にあった。
「……どうして、そう思う」
ロッシュが顔を上げる。
「灰色の鷹。総将のための部屋が用意されていて、合言葉で鍵を受け取れるなんて……まるで諜報員のやり口」
ローザは封筒の端を指先でそっとなぞった。
「確かに……変ですよね」
メグが静かに頷く。ロッシュも、それについては否定しなかった。
「獅帝戦団の“闇”を知りたい。そして、その“闇”を――払いたい」
ローザは炎の中心を真っ直ぐに見据えた。
「……でも、私たち、もう獅帝戦団じゃないですから。どうしようもないです」
メグがふっと肩をすくめる。
「メグの言う通りだな」
ロッシュは笑おうとして、途中で息を吐き直した。
「でもさ」
ロッシュは木匙で鍋の縁を軽く叩く。乾いた音がひとつ、夜気の中へ溶けた。
「どうしようもねえ、で終わらせるのは……ちげえ気がする」
ローザとメグが目を上げる。
火の向こうにあるロッシュの目は、冗談のない、まっすぐで誠実な光を宿していた。
「俺ら、自由だろ。もう命令には縛られてねえ。だったら、“知る”自由もある。……知った先で、何かできるかもしれねえ」
珍しく、ロッシュはまっとうな理屈を口にしていた。
「知るって、怖いです。でも……知らないままのほうが、もっと怖いかもしれない……です」
いったん否定したメグも、小さく頷いた。
「育ってきた場所に“闇”があるなんて……俺は嫌だね」
ロッシュは低く言葉を継いだ。
「俺もローザと同じだ。“闇”を取っ払いてぇ」
ローザの胸の奥で、何かが静かに鳴った。グロワールの手紙の言葉が、焚き火の熱で温め直される。
――命令だけを信じるな。
――自分の意思で、自分の正義を進め。
「……ありがとう」
ローザは小さく言った。ロッシュは照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「礼はいい。……ほら、食え。腹が減ると余計なこと考える」
メグが笑った。
「ロッシュ、結局それですね」
「結局それだ。腹は正直だからな」
少しだけ笑いが戻る。そうして夜は、静かに更けていった。
火を落とし、灰を寄せ、砂をかぶせる。焚き火は跡を残さない。
けれど、今夜の会話だけは、それぞれの胸の内に確かに刻まれた。
*
空がまだ薄い青をたたえたまま、東の端から少しずつ茜に滲みはじめる。
ロッシュはむっくりと身を起こした。肩には夜露が置かれている。
「……あー、さむっ」
「さすがに一晩中外で寝るのは体に堪えるかもね」
メグが笑いながら言い、弓弦を張り直して矢羽についた露を指先で払った。
ベルノアへ――向かう。
三人は、獅帝戦団の“闇”を明らかにする。そう心に定めていた。
焚き火の跡は灰の匂いだけを残し、波は今夜もまた灯を受け入れるために、静かな面を整えはじめていた。
*
アンブラージュ城、白百合の尖塔の上階。
街は新たな女王の誕生を祝い、祝祭の音に満ちていた。
その喧騒から切り離された静かな一室で、ひざまずく影が短く報告する。
「報告。向かった先はベルノアとのこと」
座していた男は、ゆっくりと瞼を上げ、わずかに息を吐いた。
「ベルノア……か。接触は厳禁。監視継続を伝えよ」
「了解」
扉が閉じられ、鐘形の金具がかすかに鳴る。
ソレイユは窓の外を見下ろした。白と金に染まる祝祭の都を、ただひとつの面のように見つめる。
祝福の光のただ中で、ひとつの闇が、静かに動き始めていた。
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