第22話 記憶を海へ、名を胸に
海鳥の声が、道標のように空を渡っていく。
ロサマリアの中心街を発って半日の街道。
石畳はいつしか砂利へ変わり、砂利はさらに白い浜砂へほどけて、ふいに入江がひらけた。白い砂浜が弓なりに湾を抱き、岩肌は夕陽を受けて濃い紫に染まっている。家々の屋根瓦は金の縁を帯び、海面にはすでに細い灯がいくつも浮かびはじめていた。
ロサマリアの西端。ベルノアとの国境に近い小さな町、ベルメモリーズ。
今夜この町では、亡き者の名を灯に記し、沖へ流す祭りが催されていた。
旅人の足を止めるには十分すぎる静けさがあり、同時に、胸の奥をそっと掴むような美しさがあった。
港へ近づくほど、匂いは幾重にも重なっていく。焼いた貝の香ばしさ。果実酒の甘い酸味。濡れた木材の青い匂い。その層を割るように、紙灯籠の灯がゆらゆらと揺れていた。
小さな灯が波の上に点を打つ。点はやがて線となり、線は束となって、海へ向かう“祈りの道”を形づくる。
今夜、この入り江では、海そのものが“記憶”になる。
「記憶祭か……」
マーガレットが低く呟いた。
「灯籠流し。亡き者の名を、海へ返す祭りだ」
ネイの声もまた、小さかった。
「日も落ちる。今夜はここに泊まるか」
そう言って、マーガレットは足を止めた。ネイが頷くと、アージェンスから渡された旅費の巾着が、外套の内側で小さく鳴った。その一瞬のためらいを、マーガレットは見逃さない。
「王から頂いた旅費だ。遠慮なく使え」
そう言って、彼女は首だけで宿の方角を示した。
港裏の小径を抜けると、コテージが並ぶ一角に出た。板壁は潮にさらされて白く褪せ、窓枠には乾いた藍の塗料が残っている。
戸を開ければ、松脂の匂いと、火床に残った灰の匂いがわずかに鼻を打った。
二人分の寝台。濡れたものを干すための梁。剣を立てかけるのにちょうどいい隅。旅人には十分な造りだった。
「荷を置いたら、祭りを見に行こう。……酒もある」
「ロサマリアでもそうだったが、酒好きとは意外だ」
「嫌いじゃない。飲まなきゃ眠れない夜もある」
――眠れない夜。
その言葉が、ネイの胸の内側へ小さく刺さった。
*
祭りの中心――砂浜へ降りる石段の脇では、紙灯籠が売られていた。薄い紙。細い竹の骨組み。小さな筆と、墨壺。
ネイは灯籠の内側に、短く名を書いた。
書ける名は多くない。それでも、ためらわず一つだけ記す。
――アン・カイザーハイン。
母は、どうやって父レオンと出会ったのか。なぜ、父のことを忘れろと言ったのか。
忘れろと告げられるほど、その輪郭はかえって濃くなる。
どんな声だったのか。どんな剣を振るったのか。その背は、誰を守る形をしていたのか。
知りたい、という欲求が胸の中で渦巻いてゆく。
紙は薄く、骨組みは軽い。だが火が入れば、それはたしかな光となって、暗がりを静かに照らし出す。
ネイは灯籠をそっと波へ置いた。灯はふわりと揺れ、ひと呼吸おいて波に乗り、沖へ向かっていく。
マーガレットもまた、一つの灯を流した。炎が揺れた瞬間、その横顔はいつもよりずっと遠くを見ているように見えた。
*
コテージへ戻ると、二人は椅子に腰を下ろし、杯に酒を注いだ。窓の外では、なお灯の列が海へ続いている。
「……お前は、誰の名を書いたんだ」
マーガレットは杯を喉へ流し込んでから、ようやくネイを見た。
「母の名前だ」
そう答えると、マーガレットは一度だけ目を伏せた。
ネイは息を吐き、窓の外へ視線を向ける。漂う灯が、ひとつ、またひとつと沖へ出ていく。
「あんたは、誰の名を書いたんだ」
問い返すと、マーガレットはしばし黙った。
それから杯を一気に飲み干し、静かに卓へ置く。
「昔の戦友の名だ」
それだけで終えるつもりだったのだろう。だが、外の潮騒がふと薄れたその一瞬、彼女の中で長く止まっていた言葉が、ようやく動き出した。
「昔の私は、“勝つ剣”こそが正しいと思っていた」
声は淡い。けれど淡いぶんだけ、刃のようにまっすぐ胸へ届く。
「敵を倒せば、味方が生きる。単純な理屈だ。……私は速かった。強かった。だから守れると、本気で思っていた」
マーガレットは、わずかに苦い笑みを浮かべた。
「私には、守るはずだった背中があった。そいつは盾役で、いつも私の一歩前を歩いていた」
杯の中で酒が揺れる。その揺れを見つめたまま、彼女は続けた。
「……その日、私は敵を斬ることに夢中だった。斬れば道が開くと信じていた。だが、あいつは私の隙を埋めるために前へ出て――そのまま死んだ」
ネイは思わず杯を置いた。潮騒が、ひどく遠くなる。
「俺は――」
そう言いかけた言葉を、マーガレットが切った。
「言うな。慰めはいらない」
目を伏せたまま、右手で制する。だが、彼女の言葉そのものは止まらなかった。止められなかったのだ。
「彼を抱き起こしたとき、ようやく分かった。殺した数は、守った数にはならない。勝っても守れないなら、私はただの刃だ、と」
彼女の視線は、窓の向こうの灯の列へ向いていた。海へ流れていく光と、過去の一場面とが重なっているようだった。
「だから決めた。私は人を斬るためではなく、武器を断つために剣を振るう。人を斬るのは、最後の最後だ」
その言葉には、理屈ではなく、長く背負ってきた重みが宿っていた。
「……お前は、友を守れなかったことを、今も背負ってるのか」
ネイが静かに問うと、マーガレットは目を上げた。
「背負い続ける。それが私の道だ」
彼女は杯を持ち上げ、今度は静かにネイの杯へ触れさせた。
二人はそれ以上、何も言わなかった。黙って酒を飲み、窓の外に流れていく灯を見ていた。
灯籠が次々と海へ送られていく。名は波に揺れ、遠ざかっていく。
それでも、消えるわけではないのだと、ネイはなぜか思った。
*
夜が更けたころ、マーガレットは酔い覚ましだと言って外へ出た。ネイもまたコテージを出て、一人、砂浜を歩く。
漆黒に染まりはじめた海が、静かに呼吸していた。
そのとき、砂浜の端から、老人と幼い子どもの声が風に乗って届いた。
「おじいちゃんは、誰の名前を書いたの?」
「レオン殿下だよ」
心臓が、ひとつ遅れて脈を打った。
風の音が遠のき、次いで海の音が戻る。“レオン”という名だけが、灯籠よりも重く胸へ沈んだ。
「あの日はな、急に風が冷えてな。波が白く立って、港の小舟がぶつかり合って……ひどい嵐になった」
子どもが「それで?」と急かす。
老人は海を見たまま、静かに続けた。
「まだお若かったが、レオン殿下は実に落ち着いておられた。子どもを先に運べ、老人を火のそばへ、と。誰を先に生かすべきかを即座に見極めて、自ら先頭に立って動いておられた」
ネイは息を呑み、さらに耳を澄ませる。
「立派なお方だったよ。慈愛も勇敢さも、どちらも本物だった。……あの方の目は、いつだって弱い者のほうを向いていた。だから皆、信じたんだ」
老人は短く息を吐き、遠い灯を見つめる。
「戦で亡くなったと聞いた夜はなあ……海まで泣いているようだったよ」
理由もないのに、胸の奥があたたかく、同時に苦しくなる。
――母が忘れろと言った人は、そんな人だったのか。
ネイは、沖へ流れていく灯を見送った。灯はやがて闇に溶けていく。けれど、名までは沈まない。
胸の中で、“レオン”という名だけが、なお光を持ち続けていた。
*
コテージへ戻ると、マーガレットが無言で火を起こしていた。ネイの姿を見ると、彼女は短く顎を上げる。
「夜も深い。寝ておけ」
ネイは頷き、寝台へ身を横たえた。天井を見つめながら、目を閉じることができない。
――レオンは、誰かを救う人だった。
では、なぜ忘れろと言ったのか。
憎しみからか。それとも――忘れないままでは、生きていけなかったのか。
*
目が覚めると、ベルメモリーズの空は、抜けるような青だった。
コテージを出たネイは、朝の空を見上げ、ひとつ息を吐く。
「行こう」
マーガレットの短い声に、ネイは静かに頷いた。二人はそのまま、ベルメモリーズを後にした。
だが、街の広場の人波の中に、二人の背を見つめる巡礼僧が一人、立っていた。
祭りの余韻が残る朝の青の中、その視線だけが、冷たかった。
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