第21話 戴冠式での凶矢
王都の空は、女王の戴冠を祝福するかのように美しく晴れていた。
戴冠式当日。白百合の旗が幾重にも垂れ、王都の広場は人の波で満ちていた。
花弁を撒く子どもたちの手は小さい。だが、その一片一片が「今日」という日を祝福の印へと変えていく。楽隊の金管は晴天を押し上げるように鳴り、鼓の低音が石畳の下へ深く響いた。
マリーは教皇の前へ進み、静かに跪く。
十五歳の女王。まだ少女とも言えるその小さな肩にかかる国の重さは、光の冠よりもはるかに重い。
教皇の手が、冠を掲げる。
金と白い宝石の輪。白百合の意匠が幾重にも絡み、中央の小さな尖りが天へ向いている。祈りの言葉が唱えられ、群衆は息を呑んだ。
そして冠が額に触れた、その瞬間――。
アンブラージュ王国初の女王が誕生した。
マリーは立ち上がり、謁見台へ向かう。そこで風がひと呼吸し、旗が波打った。
背後には、グラーフ公が控えている。マリーは広場を見下ろし、ひとつ息を吸う。民の波の中心に、沈黙がひとつの円となって広がった。
言葉が来る。新たなる王の言葉が。
「民よ。私は、あなたがたのための――」
最初の一語が風に溶けかけた、そのときだった。
上方の庇陰から、鋭い風切り音。
弧を描く黒羽根。
光を切り裂く一本の線。
群衆は気づかない。花と音楽と涙と祝福の中にいる者は、危険な音を聞き分けられなかった。
だが一人、マリーの後方に控えていた男が、咄嗟に前へ半歩――。
グラーフ公の身体が動いたのは、音よりも早かった。
鞘を撫で上げるように左回りで弧を描く。金属が矢の胴をはたき、黒羽根は瓦の上で鋭く乾いた音を立てて跳ねた。矢尻が石を削り、火花が小さく散る。
「下がれ!」
警吏の号が、遅れて響く。遅れても、響かねばならぬ声だった。
広場の端で悲鳴が上がり、祝祭の鼓動が一瞬で戦場の脈へ変わる。
マリーは一瞬だけ瞼を閉じた。だが、すぐにそれを開き、静かな声で告げる。
「……私は、このような暴挙に屈することはありません」
小さな言葉は、広場の中央まで届いた。歓声が波のように起こる。動揺と信頼が同時に放たれ、民の心がひとつへ寄る。
それはまさしく、“王の言葉”そのものだった。
上層通路へ影が走る。特務隊が即応で駆け上がり、回廊の石を蹴って、射点と思しき足場へ踏み入った。
「逃すな!」
ソレイユが短く叫びながら走る。その動きは鎧が擦れる音さえ抑え、足取りは静かだ。回廊の柱の影、天窓の隅、鐘楼へ続く狭い梯子――逃げ道は多い。暗殺者は一人とは限らない。
ソレイユは床に落ちた粉末を見つけ、膝をつく。
布粉。足音を消すための古い手だ。
そして、矢が飛んできた方向――庇の裏へ視線を走らせる。
「……いたか?」
「いません。痕跡だけです」
手摺に薄い革片。柱の根元に、小さな金具。
その金具に刻まれていたのは――鷲の印。
ソレイユは古びた弓を拾い上げた。弓は旧式。肩に当てる木の曲線が古典的で、握りは古式の革巻きだ。だが油は新しい。近い日に手入れをされた匂いがする。
「ベルノアの刻印……」
*
王城の私室にいたグラーフ公は、椅子に腰を掛け、窓の外の様子を見ていた。そこへ侍従が報告のために部屋へ入り、特務隊の見立てを伝える。
「報告、ご苦労」
そう言うと、グラーフ公は静かに立ち上がり、私室を出た。
グラーフが謁見室に入る。
白百合の床石が光を返す。天井の梁に吊られた燭台は金色に揺れ、香炉の煙は細く、天へ溶けていた。
やがてマリーが謁見室に現れ、王座にゆっくりと腰を掛ける。
グラーフ公は片膝をつきながら、重い口を開いた。
「陛下。射点に人影はなく、遺留品としてベルノアの旧式弓を確認。矢羽根は黒。足音偽装の布粉も――」
「ベルノアの弓……ならば和平交渉は……」
マリーの表情が微かに歪む。言葉の端が、ほんの少しだけ震えた。
「再考すべきでしょうか」
グラーフ公は目を伏せる。その伏せ方は、臣下の礼ではない。
――判決を口にする者の伏せ方だった。
「今はまだ、信用は置けませぬ」
しばしの沈黙。窓外の旗が音を立て、白百合の影が床を横切る。
マリーは窓外の旗を見やり、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
グラーフ公は無言のまま一礼した。
*
アンブラージュ城の私室へ入ると、グラーフ公は窓の鎧戸を半分だけ閉め、ソレイユを呼んだ。扉が音もなく閉じた瞬間、祝祭の残響は遮断される。
「父上……どうされますか」
ソレイユの問いに、グラーフ公は答えず、卓上に置かれたベルノア製の弓を手に取る。
「恐らく、これ以上は何もないはずだ。ひとまず静観とする」
「承知」
グラーフ公は窓の向こうへ視線を投げた。外ではまだ、祝祭の片付けが続き、人々は「女王は無事だった」と互いに言い聞かせている。その様子を見たのち、一拍を置いてソレイユへ語りかけた。
「……ネイ・カイザーハインは今どこにいる」
グラーフ公の声はいつもより低い。
「聖都を出て、ロサマリアの西、ベルメモリーズへ向かっているとのこと。あのマーガレット・シュロップシャイアと行動を共にしているようです」
その言葉に、グラーフ公は歩みを止め、静かにソレイユへ目線を向けた。
「審問を受けたのか」
「一人で大聖堂に入り、一時の後、何もなかったかのように大聖堂を後にしたと」
グラーフ公の眉が、わずかに揺れた。
「……目を離すな」
低く、短く。命令は刃より鋭い。
ソレイユは一礼したあと、グラーフ公へ問う。
「父上、私が総将で良いのですか。特務隊の任務に支障が――」
「お前しかおらん。それに今は停戦状態だ。問題なかろう」
グラーフ公の鋭い返しに、ソレイユは再び一礼し、無言で部屋を出た。
扉が閉まり、静けさが戻る。
グラーフ公は目を細め、遠くに見えるハーデンベルグ城を見つめた。
ふと、脳裏にグロワールの姿が映り込む。
「……グロワール……お前はなぜ……」
視線が落ちる。左手が握りしめられる。
噛みしめた唇の奥にあるのは、怒りか、悔恨か、それとも――。
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