第20話 英雄アルザスの影
聖都ルクス=アークは、白く、そして遠かった。
だが、その地にネイの姿はなかった。門前で得られた答えは、あまりに短い。昨日、大聖堂へ入ったこと。そして、すでに聖都を去ったこと。
それだけだった。
ネイとは会えなかった。だが、それは空振りではない。
聖都を出られたということは、異端嫌疑が晴れたということを明確に示している。
ネイが無事であれば、それで良い。三人の思いは、同じだった。
「ロサマリアに戻ろう」
ローザの声に、ロッシュとメグは黙って頷く。
三人は足早に、アルカンサーナを下った。
*
ロサマリアは、すでに昼の活気に満ちていた。
魚脂、香辛料、果実酒、油煙。鎖巻き上げの軋みが運河に響き渡る。
隠れ宿へ戻る途中だった。
柑橘の香が、風の縁で細く切れ、鼻先をかすめた。上等すぎる香り。
ローザの足が、わずかに止まる。
角の先に、覆いの厚い馬車が停まっていた。その傍らに、二つの影がある。
ひとりは、煌びやかな衣装を纏った商人風の男。
もうひとりは、赤い外套と深い頭巾で顔の大半を隠した男。
ローザの脳裏に、即位式の光景がよぎる。祝福の壇上の底で、無表情に場を“測っていた”二つの視線。
――あのときの男たち。
ロッシュとメグも気づいたのだろう。左右から、息を潜める気配が伝わった。
ちょうどその近くで、荷役人らしい男たちが荷札を束ねながら囁き合っている。
「見ろよ、あれが豪商オスカー・ランブラーだ」
「ベルノアまで船も馬も押さえるって噂の?」
「金の匂いのするところには必ずいる、ってやつだ」
豪商、オスカー・ランブラー。
ローザは露店の陰へ身を寄せ、視線だけを二人へ送った。
風向きが変わる。運河の湿りに混じって、会話の断片が届く。
「……準備を終えたら、次はベルノアだ」
商人風の男――オスカーが、笑みのない口元のまま言った。
「承知した」
赤い外套の男が低く答える。
「あとは頼んだぞ、アルザス殿」
体中の血が、一瞬だけ冷えた。
“アルザス”。
獅帝戦団の英雄譚として語られてきた名。そして昨夜、グロワールの手紙に記されていた名。
――ある夜、私はアルザス殿を斬ってしまった。
目前にいるのは、あの“アルザス・ローザペイサージュ”なのか。
偶然ではない。ローザの直感が、そう告げていた。
オスカーは、ちょうど馬車へ乗り込むところだった。御者が手綱を引き、馬が小さく嘶く。馬車は滑るように動き出し、そのまま通りを抜けていく。
ローザは露店の陰から歩み出た。
「お待ちください」
赤い外套の男が振り返る。頭巾の陰で、目が細まった。
「なんだ」
男の声は低く、鋭い視線をローザへ向ける。
「さっき、あなたは“アルザス”と呼ばれていた。あの英雄、“アルザス・ローザペイサージュ”と同じ名の」
その瞬間、男の表情がわずかに変わる。
驚き。警戒。そして、過去に触れられた者だけが見せる、一拍の硬直。
男はただ、ローザを見つめる。その沈黙が、かえって不穏だった。
ロッシュが一歩前へ出る。メグも視線を外さない。だがローザは手で制した。
男は、口元だけをわずかに歪めた。
「……英雄、か」
ローザの胸で、昨夜の手紙の文言がもう一度ひらく。
「グロワール・ハイダーウルフを知っていますよね」
男の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「昨夜、私は手紙を読んだ。そこに、アルザスの名があった。総将が一生を賭けて悔いた名として」
男の喉が、わずかに動いた。頭巾の奥の眼は、思っていたより若く見える。
「……お前は、獅帝戦団の者か」
ローザは確信した。
グロワールの名だけでなく、“獅帝戦団”という言葉がすぐに出る。この男は、アルザスで間違いない。
「そうです」
ローザは視線を外さず、さらに踏み込んだ。
「総将と何があったのですか。あなたはこうして生きている」
男の目が、わずかに笑った。だが、そこに温度はない。
「応える義務はない」
アルザスは言い捨てると、踵を返した。
ローザは駆け出し、指が反射で剣の柄へかかる。斬るためではない。男を止めるためだ。
「やめておけ」
男は背を向けたまま言う。その声は鋭かった。
「ロサマリアで剣を抜けば処罰に値する。聖都直轄の秩序を敵に回したいのか」
柄にかかった指先が止まる。
抜けば終わる。ここで騒ぎを起こせば、ネイを追うどころではなくなる。街の秩序そのものが、敵に回る。
頭巾の陰で、口元だけが薄く歪んだ。
「またどこかで会えるかもしれんな」
次の瞬間には、身を翻していた。
人と荷の隙間を縫い、街角の陰へ滑り込む。追おうにも、ここでは剣も脚も半端にしか使えない。
ローザは数歩だけ踏み出し、そこで止まった。
見失った。
だが、消えたのは姿だけだ。進むべき道は見えた。
オスカー・ランブラーは確かに言った。
――次はベルノアだ、と。
ベルノアで何かが起きる。そしてアルザスも、そこへ向かうはずだ。
ローザはそう直感していた。
*
宿に戻り、まず席に着いてから一呼吸置いた。
「ベルノアに行こう。アルザスも向かっている」
ローザは次の行先を、はっきりと言葉に落とした。
「ネイ様はどうするんですか?探さないんですか?」
メグが驚いた表情を見せ、ローザへ問う。
「ネイはハーデンベルグには戻らないだろ。もう除隊扱いみたいなもんだ。なら、次はベルノア方面だ」
ロッシュは拳を握って開き、短く笑う。軽さを装っているが、目は鋭い。
「見つからなかったら戻ればいい。行こうぜ。なにせ俺らは“自由の身”だからよ」
その自由は、放埓の自由ではない。命令に縛られない自由。誰かの都合で折れない自由。
だからこそ、誰かを追える自由だった。
「分かった、行きましょう!ベルノアへ!」
メグは矢羽をひと撫でし、力強く頷いた。
宿を出て通りへ出ると、パン屋の前で配達の少年がこちらに気づいて手を振った。
「姉ちゃん!ネイには会えなかったか」
「少し遅かったみたい。お仕事、偉いわね」
「まあね。会えるといいね」
少年は得意げに胸を張り、駆けていった。
待っていては掴めない。掴みに行く。
――ベルノア方面へ。
三人の足音が、前だけを見る拍に揃う。
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