第19話 遺された想い
グロワールの手紙が、重く胸に圧しかかっていた。
ローザ、ロッシュ、メグの三人は、ロサマリアへ辿り着き、倉庫帯を歩いていた。
石畳には海からの湿りが薄く残り、荷運びの車輪が通るたび、鈍い軋みが朝の名残を引きずっていく。ハーデンベルグに満ちていた張りつめた厳粛さとは違い、この街では民衆の顔つきがどこか明るい。
「みろよこれ、旨そうだぞ!」
ロッシュが魚の串を三本掲げて戻ってくる。
「ロッシュ、浮かれすぎ。……一本ちょうだい」
メグは呆れた顔のまま受け取り、一口かじった。
「おいしい……!」
その顔が、素直に綻ぶ。
「メグも浮かれすぎ」
ローザは肩をすくめた。するとロッシュが、残り一本を当然のように差し出してくる。
「…………」
ぐぅ、と、ローザの腹が鳴った。
ロッシュが吹き出し、メグも目を丸くする。ローザは耳まで赤くしながら、結局は串を受け取った。
「腹は正直だねぇ~」
「ローザ様、かわいい」
ロッシュは腹を抱えて笑い、メグは口元を押さえながら笑っている。その様子に、ローザもつられて口元を緩めた。
――こんな時間があっても、いい。
そう思う一方で、胸の底では別の問いが消えない。
ネイは無事なのか。
女王の護衛。
即位式での異端嫌疑。
ネイを逃がしたあの夜。
そして、グロワールとの別離。
ロサマリアの空は明るく、潮風はどこか甘い。
それでも胸の奥だけは、緊張で固く結ばれたままだった。
*
ネイを探してロサマリアを歩き回ったが、結局見つからなかった。
ネイの名を出して尋ね回れば、手がかりは拾えただろう。だが、それはネイの危険へ繋がる可能性がある。ローザには、どうしてもできなかった。
陽が西へ傾いていく。ひとまず宿へ向かうべきと考え、外套の内からグロワールの書簡を取り出す。中には簡潔な地図と、数行の文字があった。
――ロサマリア港宿、灰色の鷹。合言葉は「青い槍は門を叩かない」。
「えーと、港の南だな」
ロッシュが覗き込み、指で区画をたどる。同業者組合会館の裏手を抜け、秤の泉を右、パン屋の先にある跳ね橋を渡った先。
三人は足を速め、地図が示す場所まで迷わず辿り着いた。
宿は小さな作りで、灰色の看板に翼を畳んだ鷹の彫り物。全体的に質素な雰囲気だ。
中へ入ると、主人が目を細め、無言のままローザたちを見つめる。
ローザはほんのわずか間を置き、恐る恐る口を開いた。
「――青い槍は門を叩かない」
主人の眉が、ごくわずかに動いた。
「……ハイダーウルフ殿の客人でしたか」
低く落ちた声には、余計な詮索も警戒もない。
「ようこそ」
用意されていたかのように鍵が渡される。その自然さが、かえって不自然だった。
総将グロワール・ハイダーウルフ。
自分が知っていたのは、剣と規律の人としての姿だけだ。だが、潜伏先のような場所まで用意している、まるで諜報員のような輪郭も浮かんでくる。
総将は一体何者だったのか。
刻まれた部屋番号を辿って着いたのは、二階の端の部屋だった。窓の下には運河と跳ね橋が見える。
腰を下ろした途端、張っていた筋肉が急に重くなった。
「ローザ様、手紙、読むのですか?」
メグの問いに、ローザは無言で頷く。
椅子へ深く腰をかける。ロッシュも背を正す。メグも寝台の縁へ座り直し、両手を膝の上で揃えた。
部屋には、運河を流れる微かな水音だけが残る。
ローザは手紙を開き、静かに読み上げた。
*
ネイへ。
私は命令に従いすぎる男だった。
命令に従うことを、自分の正義だと信じていた。
傭兵団からの古参として、そのようにしか生きられなかった。
ある夜、私はアルザス殿を斬ってしまった。
尊敬に値する人だった。なぜ斬ってしまったのか。
私はその日から、後悔の念に囚われ続けている。
剣を磨くたび、あの夜の月が刃に映った。
寝台に横たわれば、アルザス殿を斬った音だけが耳から離れない。
贖罪として私は孤児院の子どもたちを育成する役割に就かせてもらった。
子どもたちは私を癒し、私の希望となってくれた。もちろんお前もその一人だ。
子どもたちは立派に育ち、各地で活躍するまでになった。
だが、罪を背負っていた私は何故か“総将”という立場を与えられた。
そしてこの日、ネイが聖都から異端嫌疑にかけられたと報告が入った。
異端嫌疑にかけられた者は死罪になる可能性が高い。
私の希望でもあったお前を、こんなことで死なす訳にはいかない。
お前を救うためであれば、私が身代わりとなる。
それに、私は罪を背負い続ける日々に、疲れきっていた。
――丁度いい。そう思っただけだ。
ネイ、お前は私のようになるな。
命令だけを信じるな。
自分の意思で、自分の正義を進め。
――グロワール・ハイダーウルフ
*
読み終えてもなお、ローザはしばらく紙を下ろせなかった。ロッシュは俯き、組んだ手に力を込めながら、何かを堪えている。メグは口元を押さえたまま、目尻を赤くしていた。睫毛の先だけが震えている。
三人とも無言のまま、しばらく言葉を放つことができなかった。
「……燃やさないのか?」
ロッシュがようやく顔を上げた。
ローザは小さく首を振る。
「これはネイへの手紙だから」
ローザは紙を丁寧に折り畳み、封筒へ戻した。
メグは目元を拭いながら、かすかに笑った。
「……ネイ様に届けなくちゃ」
ローザが手紙を見ながら、静かに頷く。
「必ず、届ける」
その一言に、ロッシュもメグも黙って頷いた。
それは誓いという表現に、限りなく近かった。
*
床についても、ローザは眠れなかった。
グロワールの手紙の内容が、脳裏に貼りついたままだ。
総将がなぜあのような決断に至ったのかは分かった。だが、ある一文だけはどうしても理解できない。
――アルザス殿を斬ってしまった。
戦団の英雄、アルザス・ローザペイサージュ。
なぜ、総将はアルザスを斬ったのか。誰かの命だったのか。それとも、もっと別の理由があったのか。
手紙だけでは届かない棘が、胸の奥に残り続ける。そうしているうちに夜はさらに深まり、眠れないまま、ただ時が過ぎていく。
ロッシュとメグが静かに寝息を立て始めたころ、ローザは物音を立てぬよう身を起こし、そっと宿を出た。
夜明けの茜が空を染め始めるころ、跳ね橋に立ち、欄干へ両腕を預けて川音を聞く。
そのとき、少年の声が風に乗って流れてきた。
「おやっさん、そういえばネイ、聖都に行ってからどこに行ったのかなぁ。あれから見てないよね」
ローザは瞬間的に顔を上げた。
声の在り処を探り当てると、ほとんど反射で駆け寄っていた。
「君!ネイはどの道を行った?」
ローザの声が、まだ静かな朝に大きく響き渡る。
「うわっ!びっくりしたぁ!……聖都はあっちだよ。でも昨日の朝だったから、もう居ないかもよ」
パン屋の裏口で働いている少年が、目を丸くしてローザを見たあと、聖峰アルカンサーナの方角を指さした。
ローザも、その先へ視線を向ける。
――聖都に向かったということは、証を見つけたということか。
ネイが、まだ聖都にいるかもしれない。
*
ローザが宿へ戻ると、部屋ではメグが丸くなって眠り、ロッシュは椅子にもたれて舟を漕いでいた。
「……ローザ?」
気配を感じたのか、ロッシュが目を開ける。
「昨日、ネイが聖都に向かった。まだいるかもしれない」
「マジか!んじゃぁ、行きますか」
ロッシュは迷わない。寝ぼけ声のくせに、答えだけは妙にはっきりしている。
「ふわぁ……了解です!」
メグも欠伸を噛み殺しながら起き上がる。
夜明け前。三人は灰色の鷹を後にする。
運河沿いの通りは薄青く、鎖の露が光っていた。
朝靄の向こう、三人の進む路は、まっすぐ聖峰アルカンサーナへ伸びていた。
グロワールが遺した想いを胸に、三人もまた聖都へ向かう。
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