第1話 祈りの言葉
号令が、ハーデンベルグ公国の朝を割った。
針葉樹の森が公国を抱く。枝先の霜は朝日で輝き、風の綻びに土と芽吹きの匂いが混じる。春は、すぐ背後まで来ている。それでも石畳には白霜が薄く降り、冬の帳がまだ色濃く残っていた。
獅帝戦団の演武庭。
黒の礼装が整然と並ぶ。剣帯の金具がかすかに触れ合い、白い息が隊士たちの輪郭を薄める。笑い声も咳払いもない。外套が擦れる音さえない。緊張感が隊列全体を包み込む。
冬の峠は越えた。代わりに、戦の季節が戻ってくる。
ローザリア東部を統一したアンブラージュ王国が、次に牙を向けるのは西部――。噂は昨夜から戦団内を巡っていた。そして今朝、それは命令という形で落ちてくる。誰もが、そう読んでいた。
隊士ネイ・カイザーハインは、隊列の中で静かに発令を待っていた。
先の戦役で功を挙げたネイは、内示どおりであれば小隊長へ昇格する。
時が刻まれるほど、胸の鼓動が速くなる。無意識に胸元へ指が滑る。布の下の小さな装飾を、静かに握りしめた。
理由はわからない。
触れると、鼓動の乱れが鎮まる。
観閲台の縁には青地に金獅子の意匠、ハーデンベルグの旗。朝日を受けた金糸が鋭くきらめき、風を切って硬い音を立てた。
その下に、列の隊士とは明らかに違う空気を纏う男が現れる。
ソレイユ・ヴァンダーヒルト。
視線を払うだけで、隊列の背筋が揃う。
ハーデンベルグ公爵の嫡子で少数精鋭の特務隊を率いる若き旗手。獅帝戦団の英雄アルザスの再来――そう囁かれる新たな“戦団の顔”だ。
そこに立っているだけで、場が規律になる。戦が始まる前に、空気そのものが整列するかのように。
隊列のどこかで、抑えた声が落ちた。
「……殿下だ」
「殿下が……ってことは、やはり……」
呼び名が飛んでも、ソレイユは眉ひとつ動かさない。口元だけがわずかに引き締まっていた。
ネイにとっては幼少からの憧れだった。孤児院の壁に貼られた英雄譚より、ずっと近い場所で、“在るべき背中”を示した人間。
やがて、別の足音がソレイユの前へ進み出る。
グロワール・ハイダーウルフ。
獅帝戦団を束ねる総将。老練な体躯を礼装の外套に包み、視線は刃のように鋭い。
ソレイユと短く目配せすると、羊皮紙が広がる音が演武庭に大きく響いた。空気がさらに一段、硬くなる。
グロワールは低い声で、儀礼の口調のまま読み上げた。
ベルノア王国領ローンズベリーへの出兵。
予測どおりの発令に、隊列の奥でわずかな騒めきが走る。続いて編制、補給、巡礼救護旗との連携。辞令は淡々と並び、ひとつずつ、石を置くように重く落ちていった。
最後に、再編に伴う新たな小隊の任命。幾つもの名が呼ばれるたび、肩がわずかに跳ねる。
そして――最後に、ネイの名が落ちた。
「ネイ・カイザーハイン。第八小隊長に任ず。副長、ローザ・ステラグレイ。同隊にロッシュ・ランベール、メグ・メルリーズ」
瞬きがひとつ遅れた。次の瞬間には背筋が伸び、身体が勝手に敬礼を作っていた。
ネイが鋭く敬礼すると、後背に並ぶ三名も寸分違わぬ速さで敬礼した。
胸の奥が熱い。積み重ねられた評価が、ついに“形”となって示されたのだ。
四人は、金で寄せ集められた兵ではない。
孤児院の長机で同じパンを割った。雪の日も雨の日も同じ屋根の下で育った。叱責も褒め言葉も同じ距離で浴びた。夜には薄い毛布を奪い合って笑い、朝には同じ井戸水で顔を洗った。
肩の高さだけは、あの頃のままだ。増えたのは、小隊長としての責任。そして戦士としての覚悟。
解散の合図が落ち、列がほどける。張り詰めていた空気が緩み、吐息が一斉に白くなる。
ネイはそこでようやく、自分の喉が乾いていることに気づいた。
ロッシュが、笑いを抑えきれない顔で回り込んでくる。
「……小隊長か。やったな、ネイ!」
言い終える前に、背中へ掌が飛んだ。鈍い音と、走る痛み。
昔からそうだ。嬉しいときほど加減を忘れる。だが、その痛みが妙に嬉しく感じる。
「痛いぞ」
「ははっ、今だけは我慢しろ!」
ロッシュは唯一無二の親友――それ以上の言葉がいらない存在だった。
「ネイ様、おめでとうございます!」
メグが胸の前で両手を組み、小さく跳ねるように笑う。誰かの喜びを、真っ先に自分の言葉にできる。その真っ直ぐさは昔から変わらない。
ローザは一拍遅れて無言のまま頷き、水筒を差し出した。
「……喉、乾いてるでしょ」
勘が鋭く、よく気が回る。それでいて飾らない。ネイにとっては幼少期からの相棒だ。この表現が、いちばん自然だった。
水を飲み干したところで、足音が近づく。四人は反射で姿勢を正した。
グロワールが歩み寄ってきた。
「ネイ。今回の昇格は私の推薦だ。期待している」
孤児院の四人を戦団の隊士にまで鍛え上げた男の声。それは単なる上官とは別の、父性にも似た色が混じっていた。
「はっ! 期待に応えてみせます!」
鋭く敬礼を返すと、グロワールはネイの肩を軽く叩く。
「第八小隊は、お前を含めてまだ四人。戦団の中でも末端の立ち位置だ」
その事実は、ネイも痛いほどわかっている。自然と表情が引き締まった。
「だが、功が積もれば名は広まる。名が広まれば、守れる背が増える。これからだ」
グロワールは声をさらに落とす。
「いいか。命令に従いすぎるな」
意外な言葉に、ネイは目を丸くした。
「戦場は刻々と状況が変化する。お前は最善を選択できる。仲間を守り、導け」
従うだけの剣ではなく、守るための剣となれ。そう言われた気がした。
ネイは一度、唾を飲み込み、再び敬礼する。
「……承知いたしました!」
グロワールが去ると、今度はソレイユが歩み寄ってきた。
「私の隊は獅子王の護衛で別働となる。助力はできんが……大丈夫か?」
笑みを浮かべ、ソレイユはネイの肩を軽く叩く。掌の温度が一瞬だけ残り、すぐ消えた。
「はい! 訓練してきたのは、そのためです!」
ネイは目を輝かせ、背筋を伸ばす。ソレイユは笑みを残したまま、声だけを低くした。
「――どんな形になっても、生き延びろ」
祈りに近い一言が、ネイの胸の奥底に深く刺さる。生きていれば――やり直せる。そう言われた気がした。
絆で結ばれた四人の第八小隊。
彼らは祈りの言葉と共に、決戦の地へ向けて歩み始めた。




