第16話 決意の朝
闇夜の訪問者が、静かに立っていた。
深い頭巾の奥から、巡礼僧の女はただネイを見つめている。昼間と同じ、穏やかでいて底の見えぬ眼差しだった。灯の届くところと届かぬところの境に立ち、その姿だけが妙に輪郭を持って見える。
「何者だ!」
マーガレットは席を立ち、巡礼僧の女へ歩み出ようとするが、その一歩をネイが制した。
ネイは無言のまま、巡礼僧の目を見つめる。問い詰めるより先に、彼女が何を告げに来たのかを知るべきだと、直感が告げていた。
女はまっすぐネイを見返し、やがて静かに言った。
「……聖都へ行くのです」
落とされた言葉は、あまりに意外だった。
「行けば、事は進展します」
それだけを告げると、巡礼僧は踵を返した。衣擦れの音さえ残さず扉が閉じ、宿は元の空気へ戻る。さきほどまでそこにあった異質な気配は、跡形もなく消えていた。まるで最初から誰も来ていなかったかのように。
「……何者だ?」
マーガレットが短く問う。廊下へ目をやるが、足音は残っていない。
「握手を求められた。“善行に触れておきたい”と――」
ネイが巡礼僧との出来事を説明すると、アージェンスはランプの芯をわずかに上げた。炎が心もち明るくなり、卓上に置かれた杯の縁が細く光る。
「“進展”という言い回しは、聖都の審理語彙だな。街の噂話ではまず使わん。聖都の関係筋か……あるいは、それに近い立場の者だろう」
ネイは王紋を握り直し、再び首にかけた。革紐の下で、王紋の冷たさが指に伝わる。
この王紋の意味も危うさも、いずれは光の下へ差し出さねばならない。逃げるためではなく、自分で選んで進むために。
「聖都へ行く。進展させるために。――あの巡礼僧の進言に賭ける」
言葉にしてみると、不思議と迷いは薄れていた。そこにあったのは無謀さではない。行き詰まりの果てに見つけた、前進への一歩だった。
「見知らぬ者の進言に従うのか?」
マーガレットは目を細める。戦場なら、まず罠を疑う声音だった。
「このままでは、時が過ぎるだけだ」
ネイの言葉には、もう逃げの色がない。聖都を避けるべき場所ではなく、自ら踏み込んで疑いを晴らしに行く場として見定めている。
その響きに、マーガレットの肩がわずかに緩んだ。
「……いいだろう。ただ、大聖堂の手前には聖紋騎士団の検問がある。どう抜ける?」
するとアージェンスが立ち上がり、外套の内から紙を取り出した。
卓を作業台に変え、短く明瞭な文言をしたためる。羽根ペンは迷わず走り、淀みがない。迷いのない筆跡は、そのまま王としての決断の形に見えた。最後に“鷲”の紋章が押される。
その印は、ベルノアの公印だった。
「検問では、“ベルノア王国の指示のもと、教皇猊下への異端嫌疑についての審問を申請する”と告げ、この書簡を示せ。それで大聖堂区域に入れるだろう」
アージェンスは静かに書簡をネイへ手渡した。
「……ありがとう」
紙面を見つめたまま、ようやくそれだけ言えた。声は少しかすれていた。礼を言うには、そこへ載っているものがあまりにも重かった。一国の王が、自分のために公式の形を与えてくれたのだ。ただの同情でできることではない。
「礼は審理が終わってからだ」
アージェンスは笑い、軽くネイの肩を叩く。
「君に護衛を付ける。マーガレット、頼むぞ。何かあった場合、ネイにはベルノアが味方していると示せ」
アージェンスがマーガレットへ目を向けると、彼女は目を伏せ、右腕を胸に翳した。
「御意」
返答は短い。だが、そこには任務と意地が同じだけ乗っていた。
獅帝戦団の隊士を、ベルノアの軍神が護る。奇妙だが、今はそれが最善の形だった。
ネイの胸の内で、散っていた断片が少しずつ定位置へ収まっていく。
孤児院の教え。
戦団の訓令。
グロワールの眼差し。
ソレイユの「生き延びろ」という声。
そして最後の、ローザの眼差し。
すべてが、今度は光の下で戦えと言っていた。
「私はベルノアへ戻り、古文書庫の王紋資料を洗い直しておく。謎を解く鍵があるやもしれん」
ネイが礼をしかけるのを、アージェンスは手で制した。
「すぐにベルノアへ来い。来られないなら――君が収監されたと見て、私が聖都へ出向く」
冗談めいた口ぶりで、少しも冗談ではない。王が行くと言えば、本当に行く。同志の言葉が、胸に深く刺さった。
「それと、これは旅費だ。野宿させるわけにはいかないからな」
受け取った封と旅費を、ネイは丁寧に内ポケットへ納めた。今度はさすがに深く礼をする。紙のぬくもりが、自分の脈の熱と重なっていった。
ネイの胸にある王紋が、炎を細く抱き込んでいた。
まるで、いずれ晒される光を前もって飲み込んでいるようだった。
*
目が覚めると、外はまだ薄暗かった。
窓の向こうには、灰色と紺が幾重にも重なっている。夜が完全に去ったわけではない。だが、闇の底はすでにわずかに持ち上がっていた。聖都への路だけが、その薄明の中へ静かに伸びているように見える。
広間へ出ると、マーガレットが椅子に座ったまま仮眠を取っていた。
剣は鞘に収まっているが、手はすぐ柄へ届く位置にある。眠りの深ささえ制御するかのような姿勢だった。
アージェンスはすでに発ったのだろう。卓上には昨夜の杯の輪染みだけが残っている。
マーガレットはすぐに目を開けた。
「聖都に向かうか?」
「行こう」
短い問いと短い答え。それで十分だった。
二人は路地を抜け、運河沿いへ出た。
パン屋の店主と少年が店の支度をしており、少年がネイに気づいて手を振る。遠くでは衛兵が合図の灯を揺らし、橋の上には猫が一匹、尾を立てて座っている。
ネイは遠くに聳え立つ聖峰アルカンサーナを見つめた。
その上には、大聖堂がかすかに見えていた。
聖都ルクス=アークへ――光の前へ。
疑いの名が肩に乗っているとしても、それを下ろすのは他でもない自分だ。
外套の裾が風に鳴り、足音が石畳を刻む。灰色の灯が、背中を押すように揺れた。
光の下でしか消えない疑いがある。聖都の鐘は、もうこちらを数えている。
二人は、聖都へ向かって駆け出した。
その背を、道端の巡礼僧が遠くから見ていた。頭巾から少しだけはみ出た黒い髪が風に靡く。
立ち姿には、わずかな隙もない。それは祈る者というより、標的の歩幅を測る者の沈黙だった。
その鋭い視線だけが、ネイの行く先を静かに見定めていた。
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