第14話 新たなる同志
睡魔が、視界と意識を鈍らせていた。
踏みしめる石は冷え、視界の縁は砂を振ったようにざらつく。昨夜から眠っていないせいだけではない。王紋を隠し続ける緊張が、全身から静かに水分を奪っていくような感覚だった。
手持ちに見合う宿は、どこも満室だった。
跳ね橋の軋みが止み、潮がひとつ息を吐く。運河の水面が低く光を返すころ、看板の灯は一つ、また一つと絞られていく。安宿の窓には影が増え、扉には「満」の札。足は重くなり、思考だけが空回りしていた。
野宿は避けたい。眠っているあいだに胸元を探られれば、それだけで終わる。
そのとき、頭巾を深く被った黒い外套の男が前から歩いてきた。
歩幅は均一で、靴底の返しに無駄がない。石畳の濡れをよく知る者の足取りだった。
「もしかして、宿を探しておられるのかな?」
若い声だった。
ネイは無意識に胸元へ指を運びかけ、途中で止めた。
「……ええ。手持ちが少ないので、安い宿を」
外套の隙間から覗く顔は、声相応に若い。だが眼の奥には、情報を刃物のように扱い慣れた光があった。視線が一度だけ靴、肩、腰をなぞり、負傷も武装も測っていく。
「良い場所がある。案内しよう」
男は、家と家のあいだの細道を指した。洗濯物の名残が揺れる抜け道。苔むした石段。壁の継ぎ目へ掌を押し込むと、木戸が音もなく開く。
戸の裏には薄い油膜があり、蝶番は古いが鳴かなかった。開閉に慣れた手の痕跡だった。
「自己紹介が遅れたな。私はスタンウェル・オファリムと申す」
「助かります、オファリム殿。俺は――」
「獅帝戦団、ネイ・カイザーハイン……だろう?」
名を言われた瞬間、脳裏に雷鳴が走った。右手が反射的に鞘へ置かれる。
「なぜ俺の名を知っている」
ネイの鋭い目線がオファリムに向けられた。
「まあ、落ち着いてくれたまえ。情報を集めるのも仕事でね。君に興味がある。話がしたいだけさ」
男は外套の前を少し開き、刃らしいものはないと示す。所作は柔らかい。だが言葉の芯は乾いている。怪しさを纏いながら、妙に清々しい。相反する空気を不思議と同居させていた。
「ここは隠れ宿、灰灯亭という。入ってくれたまえ」
狭い口をくぐると、広間は灯を落として静かだった。飾り気のない木卓が並び、壁際には乾いたハーブと整然とした酒瓶。主人はオファリムにだけ深く礼をし、ネイを一度だけ測るように見て、音もなく消える。
「疲れが見えるな。そこの部屋で休むといい」
促されても、ネイはすぐには動かなかった。
窓の位置。
扉の蝶番。
机の重さ。
床下の気配。
逃げ道を三つ、脳裏に引く。
その様子に、オファリムはわずかに口元を上げた。
「私も仕事がある。安心して休みたまえ」
ネイは部屋に入り、鍵をかけた。
簡素な寝台と机と椅子だけ。寝藁の匂いは新しく、床の軋み方からして、最近も何度か同じように使われていると分かる。
それでも、限界だった。
背が寝台に触れた瞬間、意識は暗い水の底へ沈んだ。
*
目が覚めると、空は藍色に寄っていた。
運河の鎖が低く鳴り、寝汗は冷え、頭は澄んでいる。顔を洗い、水差しで喉を潤してから広間へ戻ると、オファリムが椅子に腰をかけ、本のしおりを親指で押さえたまま顔を上げた。
「少しは休めたかな?」
「おかげ様で……」
向かい合う椅子、二つの杯、木皿に少しのチーズと野菜と肉。
ネイが勘定袋へ指をかける手を見て、オファリムはそれを横へ流した。
「返礼は結構だ。座ってくれたまえ」
本を閉じる音は、紙のささやきに似ていた。
「――質問をしても?」
「……どうぞ」
視線は刺さるのではなく、角度を変えて測ってくる。
「朝の件だ。なぜあの少年と店主を救った?」
「少年の飢えを見過ごせなかった。それに店主には、損をしない形を見せたかった」
「損をしない形?」
「街角の婦人が言っていた。“届く頃には冷める”と」
オファリムは納得したように、杯の縁を指で弾いた。澄んだ一打が小さく響く。
「それで、あの少年か」
「あの速さなら改善できる。少年の飢えも、店の評判も」
オファリムは立ち上がり、頷きながらネイの周囲をゆっくり回った。
「では今度は、君についてだ。君は戦士だが、剣はいつ抜く?」
「人を守るとき」
「守るとは、誰の定義で?」
「……定義じゃない。俺自身の信条だ」
オファリムは静かに頷いた。
「では、質問を変えよう。なぜ君は一人でロサマリアにいる?」
ネイは沈黙した。
言えるはずがない。王紋のことも、異端嫌疑のことも、ここで口を滑らせれば終わる。
「素性の分からぬ者には口を開かない……か。君は正しい」
その言葉に、ネイは思わず顔を上げた。譲歩でも嘲りでもない。選択への敬意だった。
「会話を進めるために、まず私の素性を明かそう。スタンウェル・オファリム――は仮の名だ」
指先が冷えた。
「私の名は……アージェンス・ジ・ベルノア」
脳裏に、再び雷鳴が走った。
「ベルノア王が……なぜ、ここに」
衝撃のあまり、言葉が喉でつかえる。
「答えは簡単だ。ここは自由交易都市。情報が集まりやすい。停戦の時期だ。王は耳で戦う、ということさ」
アージェンスは静かに言った。
「改めて聞く。君は……獅帝戦団から逃れてきたのではないか?」
確信を突かれた。
「王都で教皇から異端嫌疑をかけられた獅帝戦団の隊士がいると、情報が入っている」
ネイは目を大きく見開き、喉が細く鳴る。
「名は、ネイ・カイザーハイン」
その言葉に、ネイは思わず俯いてしまう。
「だが、獅帝戦団から逃れてきたのであれば……私は助かるのだよ」
意外な言葉に、ネイは目を丸くした。
「助かる……?」
食い入るようにアージェンスの顔を見る。
「私は今、信頼できる仲間を欲している。君の信条は私に似ている。同志にならないか」
アージェンスはネイの前に立ち、静かに手を差し出した。
その掌を見つめながら、ネイは眉をひそめる。
「……俺はベルノアを信用していない」
その言葉に、アージェンスは少し驚いた表情を見せた。
「何故だ?敵国だからか」
アージェンスはネイに一歩近づく。
「獅子王の暗殺、女王陛下への襲撃。ベルノアのやり方は気にくわない」
ネイは過去を振り返り、二つの事件にベルノア製の武器があったことを語る。
「……らしいな。だが、否定する。我々は、ローンズベリーで待ち受けただけだ」
アージェンスの目の色が変わり、真っ向から否定した。その目が、これまでの柔らかさとは違う強さを示していた。
「女王への襲撃なぞ知らぬ。獅子王暗殺もありえぬ。あの戦場は、何せ彼女が指揮していたのだからな」
ネイは“彼女”という言葉に反応した。
あの軍神のことか。
ローンズベリーで対峙したとき、ほんの一瞬だけ思ったのだ。
この人とは、敵としてではなく出会っていたなら――同志になれたのではないか、と。
そのとき、扉が二度、軽く叩かれた。
主人が開ける。影がひとつ、静かに入る。
「……あんたは――!」
視線が絡み、女は薄く笑った。
「ネイ・カイザーハイン……久しぶりだな」
“軍神”マーガレット・シュロップシャイアだった。
アージェンスがネイへ目を向ける。
「実はあの朝、君に気づいたのは彼女だった。そして彼女に言われたのだ。“彼は信用に値する人間だ”と」
マーガレットが静かに告げる。
「剣を交わせば、その人間の信条は分かる。カイザーハイン、君の剣は守るための剣だ」
ネイは思い出す。
あのとき彼女は、誰一人殺していなかった。受け、砕き、無力化し、それでも守り切った剣だった。
守るために剣を取る者。その在り方に、あの戦場で確かに心が触れた。
そのマーガレットが、アージェンスを信じている。
ならば――。
胸の奥で、孤児院の庭と獅帝戦団の朝が一度に重なった。
ひとりではないのかもしれない。守るために剣を取る者が、ここにもいるのかもしれない。
ネイはゆっくりと顔を上げた。
「……同志になりましょう」
その言葉に、アージェンスは静かに頷いた。
主人が三つ目の杯を置き、音もなく退く。アージェンスとマーガレットが、薄く笑う。
杯が触れ合う音は、剣よりも鋭く――夜の秤を弾いた。
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