第13話 灰色の街
秤の街が、目を開く。
獅帝戦団の追撃を切り抜け、ネイは聖都直轄の特別自治区にして自由交易都市ロサマリアへ辿り着いていた。
運河は肋骨のように市中を走り、石橋ごとに聖庁の秤印が浅く刻まれている。潮の温度と商談の熱が混じる朝、露店の天幕はまだ半ば眠り、鐘楼は交易の始まりを淡く告げていた。
聖務官、市吏、そして聖都ルクス=アーク直轄の治安維持を担う聖紋騎士団が、同じ通りを行き交う。
香と香辛料と鉄の匂いが、まっすぐ鼻腔へ届く。
金具の触れ合う乾いた音。
粉袋を引きずる布の摩擦。
造船所の木槌が打つ鈍い拍。
貨幣の金属臭、濡れた麻縄、魚脂、果実酒の甘い発酵。
音と匂いが幾重にも重なり、街そのものが巨大な秤皿のように脈打っていた。
秩序と利の勘定が、ここでは同じ皿に載っている。
「あそこのパン屋、また配達が遅いんだとさ」
「届く頃には冷めちまうよ」
パン籠を抱えた女たちの愚痴が、朝の空気へ砂のように混じる。誰も立ち止まらない。誰もが秤に砂をひと匙ずつ載せ、今日の損と得を量っていく。
ネイは、いつもの癖で胸元へ触れそうになり、手を止めた。
亡国デラヴイユの王紋。
いまの彼にとって、それはもはや形見ではなく、“楔”へ変わっていた。七日以内に調べなければならない。この王紋が、なぜ母の手に渡ったのかを。
だが、手段がない。
聖都の保管庫から流れたのか。そもそも偽物なのか。あるいは別の由来があるのか。
考えれば考えるほど、どの道も先が霞む。王紋を見せて尋ねてしまえば早い。だが、その瞬間に聖紋騎士団へ引き渡されるだろう。
ただひとつだけ、気になる話があった。
道端の老人が、ネイの衣に刻まれた獅子の紋を見て、獅帝戦団の者かと尋ねてきたのだ。そうだと答えると、昔話をひとつ聞かされた。
かつて一人の獅帝戦団員が、大きな傷を負いながらロサマリアへ辿り着いた。その者は、すぐに聖都へ搬送されたという。生き残ったのか、死んだのかは分からない。だが、ひどく衝撃的な出来事だったと、老人は懐かしむように語っていた。
それは誰なのか。ロサマリアへ向かう獅帝戦団の隊士など聞いたことがない。もしかして、ある日突然消え、暗殺の噂もあった戦団の英雄――“アルザス”なのか。
だが、いずれにしても、この王紋への由来に繋がる話ではない。
――ひとまず、休むべきか。
昨夜から一睡もしていない。体は鉛のように重く、空腹という感覚さえ遠い。立ち止まれば、そのまま倒れてしまいそうだった。
そのとき、運河沿いで小さな騒ぎが起きた。
「待て、このガキ!金を払え!」
パン籠を抱えた髭面の店主が、痩せた少年を追っている。少年の足は速かった。肩と肩の隙間を鳥のように抜け、露店をかすめ、路地の角で壁を蹴ってさらに加速する。
群衆は二つに割れた。顔に浮かぶのは、正義でも不正でもない。退屈しのぎの興味だけだ。
少年が、ネイのほうへ突っ込んでくる。
ネイは一歩だけ進路をずらした。石の継ぎ目の滑りを読み、手の甲で少年の肩を軽く叩く。衝撃の向きだけを、わずかに変える。
少年は転ばない。ただ勢いだけを殺され、ネイの前で止まった。
「離せ!」
パンを抱えたまま、少年が腕を振るう。だが、ネイの手は離れない。
「盗みは良くない」
腰を落とし、目線を合わせる。
「邪魔するな!こうでもしなきゃ、妹が死んじまう!」
飢えと悔しさが入り混じっていた。その目にあるのは、開き直りではなく追い詰められた者の剥き出しの感情だった。
すると店主が追いつく。
「助かった!そのガキはな、店のパンを――」
ネイは店主へ向き直り、群衆にも届く声で言った。
「ロサマリアのパン屋は、あなたの店だけですか?」
店主は予想外の問いに目を丸くする。
「は?そ、そうだが」
「あなたの客は、“配達が遅くて冷める”と言っていました」
店主の眉がつり上がる。
「あ?馬鹿にしてんのか」
「違います。あなたの店の欠点を言っている」
「え?」
「この少年に、配達をさせましょう」
ネイは少年の肩に手を置いた。少年は驚いたように見上げる。
そして、さきほど愚痴をこぼしていた婦人へ目を向ける。
「ご婦人、家はどちらに?」
「あ、あそこの角の白い扉よ」
ネイは距離を測る。石畳の傾斜、露店の位置、荷車の列。およそ三分――少年の速さなら届く。
店主は半ば呆れながらも、まだ温かい丸パンを二つ、少年へ渡した。湯気が細い糸になって、朝の空気へ伸びる。
「三分以内だ。行けるか」
「……やれる」
「よし。お前の速さを見せつけてやれ」
肩を軽く叩くと、少年は駆け出した。
石畳が低く鳴る。
群衆が脇へ割れる。
白い扉がみるみる近づいていった。
ネイは店主の側へ寄る。
「盗まれた分と今回の代金は、俺が払います。客が満足すれば――彼を配達係として雇ってください。あの速さは、店の評判を上げる」
店主は口を尖らせた。だが、その目はもう計算を始めている。
「……なるほどな」
やがて白い扉が開いた。小さな子が手を伸ばし、少年が息を切らしながらパンを差し出す。湯気はまだ消えていない。
「いつもと違って温かい!」
街のざわめきが一転し、拍手が起こった。店主は頭を掻き、顔をしかめた末に呟く。
「……雇おう」
ネイは袋から銀貨二枚を出し、店主の手に乗せた。
「これであなたも、あの少年も、そして客も救われる」
店主は戻ってきた少年を見た。
「坊主、負けたよ。明日から配達係として働いてくれるか」
「ほんとうに?……やるよ!」
少年は笑顔で店主と握手を交わし、すぐにネイへ振り向いた。
「兄ちゃん、ありがとう。名前は?」
「……ネイだ。妹のためにも頑張れ」
拍手の輪が広がる。だが、その中にはネイを値踏みする視線も混じっていた。
そのとき、灰色の外套をまとった若い女の巡礼僧が、ネイの前へ歩み出た。
頭巾の陰の眼は穏やかで、言葉は教義の角を落としたように柔らかい。
「少年と店主、それに客を同時に救った善行。素晴らしい行動でした」
掌が差し出される。
薄い布手袋。
所作に迷いがない。
「巡礼の習わしで、善行に触れておきたいのです。――握手をさせてください」
ネイは一瞬だけ逡巡し、それでも応じた。
掌と掌が触れる。
ほんの一瞬。だが、相手はネイの手の硬さも、傷の位置も、握力の癖さえ測ったように思えた。
巡礼僧は軽く頭を下げ、袖口を整えると、そのまま群衆へ紛れて消えた。
「……善行、か」
胸の奥で呼吸がひとつ深くなる。だが、その直後に疲労がどっと押し寄せた。
――宿を、探さないとな。
重い足取りで運河沿いを歩く。石と水の匂い。橋の下で跳ねる光。倉庫街からは鎖の軋みが続き、検印を待つ列がゆっくり進む。
宗務と世俗が交わる灰色の街。守られるが、証は出ない。
その先、二階のテラスに黒い影が二つ立っていた。
男が顎をさすり、女は目を細めている。
「優れた洞察力と判断力……そして、優しさをも兼ねている。なるほど」
黒い外套の男は静かに立ち上がり、ネイへ目を据えた。
隣の女は、かすかに笑んで頷いた。




