第12話 雨上がりの街道
ハーデンベルグは、雨の音とともに夜の色を深く飲み込んでいた。
「……見張りの数は、今のところ薄いな」
ロッシュが、雨音に沈まぬ程度の小声で言った。
ネイの逃亡で城中はざわつき、隊士たちの目はみな捜索へ向いている。いま外へ出る者にまで注がれる視線は薄い。
三人は、目立ちすぎぬよう必要最小限の荷だけを持っていた。
「街道はなるべく外す。森沿いに南へ――夜明け前までに、城下の目が届かないところまで出たい」
ローザが言うと、ロッシュとメグは黙って頷いた。
三人は足音を殺しながら、雨に濡れた道を進み始める。革靴の底が泥をはねる音は、城の石床を歩くときよりも生々しかった。街外れに近づくにつれ、家々の窓の灯はひとつ、またひとつと落ちていく。夜は深まり、ハーデンベルグそのものが、彼らを外へ押し出しているようだった。
誰からともなく、口数は少ない。
総将室で交わされた最後の言葉が、まだ三人の胸にそのまま残っていたからだ。あの部屋で受け取ったものは、命令であり、別れであり、そして願いだった。どれも重く、いまだ胸の中で形を定めきれていない。
やがて石垣の陰へ身を寄せたところで、ロッシュが低く息を吐いた。吐息は湿った空気の中へ、すぐに溶ける。
「……総将、なんであそこまでしたんだろうな」
独り言のようでいて、それは二人に向けた問いでもあった。
メグが小さく肩を縮める。雨粒が髪先から落ち、頬を伝った。
「ローザ様を生かすため……だけ、じゃない気がします」
ローザは足を止めたまま、前を向いていた。グロワールが肩に置いたあの手の重みが、まだ消えずに残っている。
「私も……そう思う」
声は静かだった。だが、わずかに揺れていた。
「総将は、最初からネイを逃がすつもりだった。異端の烙印を押されたまま聖都へ移送されれば、助からないと分かっていたから」
ロッシュが眉を寄せる。
「ネイを救うために、自分が罪を被るつもりだったってことか」
ローザは頷いた。だが、すぐに小さく首を振る。
「……それだけじゃない」
濡れた夜気を吸い込み、胸の痛みを押さえるように続ける。
「総将は、自分は総将の立場に相応しくないと言った。あれは謙遜じゃない。長く抱えてきた何かがあったんだと思う。むしろ――罰せられることを、どこかで望んでいたかのような……そんな感じだった」
言いながら、喉が締めつけられる。
グロワールは誰よりも強く、誰よりも正しく見えた。少なくともローザにとっては、そうだった。剣を学び、規律を学び、立つことを教わった。その背中はいつだって揺るがず、前を行く者のそれだった。
けれど、あの人自身は、ずっと別の景色を見ていたのかもしれない。己の罪や悔いを、誰にも告げぬまま抱えながら。
メグがそっと口を開く。
「ローザ様へ“最後の命令”って言ったとき……もう覚悟されていたんですね」
その言葉に、ローザはすぐ答えられなかった。
「……そうね」
ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。
雨音だけが、短い沈黙を埋める。誰も、すぐには次の言葉を継げなかった。
やがてメグが、両手を胸元で握ったまま言った。
「……総将が作ってくれた時間を、無駄にできませんね」
ローザは無言のまま、静かに頷いた。
「ネイは証を探しに行った。だったら俺たちは、ネイと合流して、一緒に真実を掴むしかねぇ」
ロッシュのその言葉は、暗い夜の中でようやく見つけた道標のようだった。
三人は互いの顔を見合わせる。
濡れた髪。
冷えた頬。
疲れの滲む目元。
それでも、それぞれの瞳の奥には、まだ折れていない光があった。
決意を確かめ合うように、三人は強く頷く。
そして再び、ロサマリアを目指して歩き出した。
雨はいつの間にか弱まり、街の輪郭が少しずつ戻り始めている。雲の切れ間から滲んだ薄明かりが、濡れた屋根や石壁に白く宿った。夜明けはまだ遠い。けれど、闇はもう真夜中のそれではなかった。
南から、かすかに潮の匂いが届く。
ロサマリアは遠くない。そこにはネイがいる。
そう信じることで、足は止まらずに済んだ。
ローザは一度だけ振り返った。雨の向こうに沈むハーデンベルグは、もう黒い影の塊にしか見えない。城壁も塔も、見慣れた街並みも、夜と雨に溶けて境目を失っていた。
――父上。必ずネイを見つけます。あなたが守ろうとしたものを、無駄にはしません。
声には出さず、胸の内だけで呼ぶ。
三人の影は、雨上がりの道を南へ細く伸ばしていった。
*
同じ頃、王都より西南。
雨上がりの街道を、覆いの厚い馬車が一台、南の方角へ向かって静かに走っていた。車輪はぬかるみを深く抉らず、慣れた御者が水たまりを避けるように進ませている。
車内には、微かに柑橘の香油が漂っていた。
「しかし、新しい王の平和宣言には驚かされましたな」
赤い外套と頭巾を深く被った男が、隣に座る男へ呟く。声は軽い。だが、探るような響きが混じっていた。
「いや、情報どおりだ」
煌びやかな装いの商人風の男が、目を閉じたまま否定した。
「だから、あの“襲撃”をお前に依頼したんだ」
商人風の男はそこでゆっくりと瞼を上げる。灯りの乏しい車内でも、その目だけは妙に冴えていた。笑っているようにも見えるのに、温度はない。盤面を眺める者の目だった。
「金貨が一枚、無駄になりましたな。これからどうするおつもりで?」
赤い外套の男は、口元にわずかな笑みを刻む。
「――既に、布石は打ってある」
商人風の男は指を組み、僅かに笑った。
「お前の出番はまだ先だ。頼んだぞ、“アルザス”」
“アルザス”と呼ばれた男は、不敵な笑みを浮かべながら、静かに頷いた。




