第11話 最後の命令
無意識の内に、ネイを逃してしまった。
その事実が、胸の内側を鈍く何度も抉り続けた。総将室の前まで戻ったローザは、乱れる呼吸を整えるように深く息を吐き、今度は呼吸を整える。
ローザは一度だけ拳を握った。濡れた手袋の革が、軋むように鳴る。
それから、室内へ足を踏み入れた。
グロワールは椅子に座っていなかった。机の前でもなく、窓辺に立っていた。背を向けたまま、雨に濡れる城下を見ている。叱責が飛んでくるものと覚悟していた。だが、部屋の空気は驚くほど静かだった。
「ネイを逃がしたように見えた――と報告が来た」
窓の外を見つめたまま、低い声が落ちる。責める響きではなかった。
「……隙を作ったのは事実です。裏切りは死罪。覚悟はできております」
事実は事実と、覚悟を決めていた。声は震えなかった。
「……ネイを確保できれば、私が手を打つ計画だった」
その言葉に、ローザはわずかに目を上げた。
グロワールはそこでようやく振り返り、ローザに視線を向ける。窓を伝う雨粒が、外の闇を歪めていた。その歪んだ闇を背にした顔は、いつもの総将のそれに見えて、どこか違っていた。
「私の失策だ……お前がネイに特別な感情を持っていることを、忘れていた」
見抜かれていた。
その事実に、ローザは思わず視線を落とした。否定はできない。否定しようとすればするほど、かえって露わになることを、自分でも知っていた。
ネイを追ったとき、胸にあったのは任務だけではない。救いたいという思いがあった。どこか、失いたくないという感情が確かにあった。
「だが――それは弱さではない」
グロワールは、かすかに笑みを浮かべた。戦場で隊士を鼓舞するときの笑みではない。勝利を見据える将の表情でもない。それは、怯える子へ向けるような、静かで温かな笑みだった。
ローザは何も言えなかった。ただ黙って、そこに立つことしかできない。
するとグロワールは机へ歩み寄り、引き出しを開いた。中から二通の書簡を取り出し、卓上へそっと置く。
灰色の蝋。獅子面の紋。蝋痕はまだ新しい。
つい先ほど封じたばかりなのだと分かった。紙の端には指先で押さえた跡が残っていて、その一筆一筆に費やした時間の重さまで見えた。
「ロサマリアへ逃げろ。あの聖都管轄の街なら、ハーデンベルグは容易には手を出せん」
あまりに予想外の言葉に、ローザは勢いよく顔を上げた。
「ロサマリア港宿、“灰色の鷹”。私が昔、任務で利用していた宿だ。合言葉は――”青い槍は門を叩かない”。この書簡が道を開く。……もとはネイに渡すつもりだった」
さらに、もう一通。今度はひと回り小さな封だった。
「これは本来、ネイへの書簡だった。だが……お前がロサマリアに着いてから読め。そのあと燃やしてくれ」
グロワールの手が、ためらいなく伸びる。ローザはその手から書簡を受け取った。
乾いた紙の感触が、妙に重い。たかが数枚の紙であるはずなのに、剣よりも重く思えた。
「ネイを捕縛したのち、秘密裏にロサマリアへ逃がし、潜伏させる予定だった」
グロワールはそう言って、一度沈黙した。雨音が、その沈黙の隙間を埋めていく。
「そして――ネイを逃がす命令の書簡が“発見される”。私の部屋で、な」
遠くで雷鳴が鳴った。
次の瞬間、薄暗い部屋が白く照らされる。轟音が遅れて響き、雨脚がさらに強くなった。
ローザは何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「ど、どういうことですか……!」
声の震えを止められなかった。
「独断での逃亡なのか、誰かが逃がしたのか、それは分からない。だが、結果としてネイは逃亡した」
グロワールは淡々と説明する。
「だが、私が命令としてネイに逃亡を指示したことにすれば、ネイは命令に従って動いただけとなる」
その声は、ひどく静かだった。ローザは目を大きく開かせる。
「それが証明されれば、ネイの罪は軽くなる」
その言葉の意味するものは、あまりにも重い。
「状況が変わって、対象がお前になってしまったが……筋書きは同じだ」
罪を請け負う。責を背負う。そのために、自分の立場も、名誉も、命さえも差し出す。
そういうことだった。
「何故です!総将の立場にあるあなたが、何故そこまで……!」
問いかけた声は、思っていた以上に幼く響いた。自分でも情けないと思うほど、揺れていた。
窓を叩く雨の音ばかりがやけに鮮明に耳へ届く。
「そもそも私は、総将の立場に相応しい人間ではない」
グロワールの言葉には、己を嘲る色さえある。
ローザは息を止める。
「それに――」
短い沈黙ののち、彼は続ける。
「娘同然のお前を、こんなことで死なす訳にはいかぬ」
ローザは、はっと息を止めた。
目を見開き、グロワールを見つめる。返す言葉を探した。けれど、どれひとつ形にならない。喉の奥に何かが詰まり、声になりかけたものは熱の塊となって留まった。
視界が滲む。
幼いころから向けられてきた眼差し。剣を握る手を正された日々。構えの甘さを叱られた夕暮れ。怪我を隠して訓練に出た夜、戻った部屋に置かれていた薬。叱られ、鍛えられ、それでも見捨てられなかった記憶。
それらが一瞬で胸の奥に押し寄せる。
「……この決断に至った理由は、その書簡に記してある」
グロワールはわずかに微笑み、ローザへ歩み寄った。そして肩に、軽く手を置く。その手は大きく、温かかった。
「生き延びろ、ローザ。お前の生をもって、これを最後の命令とする」
命令のはずだった。
それなのに、その声は不思議なほど温かい。命じるというより、託す響きだった。
その温かさに触れた瞬間、堰き止めていたものが崩れた。
涙が止めどなく溢れ出る。
頬を伝い、顎を伝い、ぽたりと床へ落ちる。雨音の中にまぎれてしまいそうな小さな滴なのに、自分の中ではひどく大きな音だった。
「父上……申し訳ございません……」
幼い日に、ただ一度だけ心の中で呼んだ言葉だった。口に出すことは、一生ないと思っていた。けれど今夜は、それが何のためらいもなく唇からこぼれた。
グロワールは何も言わなかった。ただ、その呼びかけを否定しなかった。
それだけで、十分だった。
気づけば、扉のそばにロッシュとメグが立っていた。
二人とも雨に濡れている。息もまだ整いきっていない。ここまで駆けてきたのだと、見なくても分かった。
「殿は俺が務める。任せとけ」
ロッシュの声は太かった。だが目元は赤い。泣くまいとしているのが、かえって痛いほど伝わってくる。強がることでしか支えきれない感情が、そのまま拳の固さに出ていた。
「わっ、わたしはっ!ロ、ローザ様に……つ、ついていくだけ……ですっ!」
メグは泣きながら、それでも言葉の芯を失わなかった。涙で濡れた頬のまま、無理やりでも笑おうとしている。その健気さが、余計に胸を締めつけた。
グロワールは二人にも短く頷き、やわらかな微笑を向けた。
「二人とも。ローザを頼んだぞ」
公国の制度も、戦場の規律も、総将と隊士という関係性も。この瞬間だけは、関係なかった。
そこにあったのは、命令ではなく願いだった。
そして何よりグロワールの表情は――父の顔、そのものだった。




