第10話 揺れる視線と揺れぬ決意
ハーデンベルグは、雨に濡れていた。
雨粒が石壁と屋根を叩き、街の輪郭を鈍らせていく。その雨の中を、ローザは走っていた。ときおり唾を飲み込みながら、乱れる呼吸を押さえ込むように、ただ前へと足を運ぶ。
異端嫌疑をかけられたネイが逃亡した。
その一報が耳に飛び込んだのは、ほんの少し前のことだ。
耳を疑った。
理解より先に心が乱れ、足が勝手に速くなる。濡れた外套の裾が脚に絡む。息が荒れる。雨は冷たいはずなのに、喉だけが焼けるように乾いていた。
廊下の角で短く立ち止まり、ローザは拳で胸を一度、軽く叩いた。鼓動が乱れたままだ。
それでも、そのまま総将室の扉を叩いた。
石壁の向こうは薄暗い。一本の灯だけが、淡く室内を照らしている。机の向こうには、グロワールが立っていた。私室にいるときの穏やかな顔つきに見える。だが、その眼光には、戦場に立つときと同じ鋭さが残っていた。
「来たか」
「ローザ・ステラグレイ、参上いたしました」
膝を折りかけたローザを、グロワールが掌で制した。礼は不要だという合図だった。
机上には、すでに開かれた書類が一通置かれている。獅帝戦団の封蝋。上から雨粒を拭った跡があった。この騒ぎの中で、急ぎ用意された命令書だとひと目で分かる。
「ローザ――第八小隊長代理に任ずる。同時に、ネイ・カイザーハインの身柄確保を命ずる」
言葉が、深く刺さった。任命。そして命令。
その二つが同時に落ちてきて、ローザの身体は一瞬、完全に固まった。唇が震える。だが声が出ない。
「いいか。ネイを傷つけるな。確保が最優先だ」
短い声だった。だが、その中には確かな温度があった。
ローザの喉は焼けつくように乾いている。外は雨だというのに、唇が割れそうだった。
呆然としているローザの様子に、グロワールはわずかに目を見開いた。
「しっかりしろ、ローザ!」
滅多に飛ばさない一喝が、部屋の空気を強く打った。
背筋が伸びる。けれど、それは叱責ではなかった。
「策がある。確保はネイを救うための手続きだ。わかるか」
言葉の端に、焦りに似たものが滲んでいた。
「……救う……」
頭の中には、まだ薄い霧が残っている。思考が、うまく噛み合わない。
「そうだ。お前なら、他のどの者よりも早く、迷いなく近づける。ネイを救える」
――救うための確保。
その言葉が、ようやく喉を通った。
そのとき、扉が再び叩かれ、伝令が滑り込んでくる。
「報告!カイザーハインと思しき影、北塔へ向かっているとのこと!」
「報告、ご苦労」
グロワールは短く頷き、ローザへ視線を向けた。
「行け。頼むぞ」
「了解。――参ります!」
返事をした瞬間、身体がようやく命令を理解した。ローザは踵を返し、部屋を飛び出した。
*
外には、ロッシュとメグが呆然と立っていた。ネイ逃亡の報せを聞き、驚きと動揺を隠しきれていない顔だった。
雨脚はさらに強まり、獅帝戦団の兵たちが北塔へ向かって次々に駆けていく。
ローザは二人へ、短く告げた。
「ネイを救うために確保する」
ロッシュが即座に食いついた。
「わ、分かった……!ネイは北へ行ったのか!?」
だがロッシュの視線は、あらぬ方を向いていた。動揺がそのまま、目の向きにまで出ている。
「北塔へ向かったという情報が入った。行くわよ」
言い切った、その直後。メグが眉を寄せた。
「え……アンブラージュ方面ですか?」
メグは怪訝そうに、雨の向こうを見た。
「おかしいです。アンブラージュから移送されてきたのに、北へ抜ける理由が……」
ローザは足を止め、雨に煙る隊士たちの人波を見た。指示と報告が交差し、足が別方向へ流れている。声も視線も乱れているように見える。
「……情報が、錯綜してる」
ロッシュも腕を組み、険しい顔で呟く。
「ネイが逃げるなら……普通に考えたら、ロサマリアが自然じゃねえか?」
その言葉で、ローザの目が止まった。メグも、小さく頷く。
北ではない。南だ。
「南へ! ロサマリア方面へ行く!」
三人は進路を変え、雨に溶ける街へと走り出した。
*
冷たい雨が地面を叩く。
追うのは敵ではない。大切な仲間だ。何としても止めねばならない。だが、止め方を誤れば、その仲間を失うかもしれない。
ローザは、どうすればいいのか決めきれずにいた。
角を曲がった先で、ひとつの影が低く移動するのが見えた。
濡れた髪。長身。腰の剣帯。幾度となく見てきた背。
見間違えようがない。そして思っていたより、ずっと早く見つけてしまった。
「ネイ!」
その名を叫ぶつもりはなかった。だが、乱れた心がそのまま声になって漏れた。
ネイが振り向く。髪が額に張りつき、胸が速く上下している。
「ローザ?」
その瞬間、遠くで隊士たちの足音が増えた。追手の数が、雨の中で膨らんでいく。名を叫んだことで、ネイの位置を周囲に示してしまったからだ。
ローザは後悔するかの如く、強く唇を噛む。
仕方なく、剣を抜く。抜き位置は低い。刃は寝かせる。斬るためではない。
ネイもまた、目を細めて剣を抜いた。
互いに“本気ではない”と、互いに分かる構えだった。
剣同士がぶつかる鋭い音が、雨音を裂いた。
息がかかるほど近い距離で、ローザは声を落とす。
「――お願い、戻って」
命令ではなく、願いだった。
「戻れば、俺は終わる」
その一語で、ローザは目を見開く。
「総将が何とかするって――」
「俺自身が証明しなければ、この先はない」
ネイの瞳には、強い光が宿っていた。それは“疑われた隊士”の目ではない。自ら立って、自ら証を掴み取りに行こうとする者の目だった。
――どうやって、説得する。
そう思った直後、背後から二つの小隊の足音が迫ってきた。
「南だったか!包囲するぞ!」
「一歩も通すな!」
命令が入り乱れ、空気が荒れる。
ここで雪崩れ込めば、ネイは本気で剣を振るうかもしれない。誰かが傷つくかもしれない。そうなれば、グロワールでも恐らく守りきれない。
――ここで争ってはならない。
ローザは追手の視線を引きつけるように、ネイへ斬りかかった。だが、それは形だけの剣筋だった。ネイの目が一瞬だけ開く。
互いの剣が交錯する。
受けた衝撃から、柄革の縫い目が雨に滑った。ローザの手の中で柄が半ば抜け、剣先が石を弾く。
金属音が、路地に跳ねた。
その隙に、ネイは身を切る。影の濃い路地を選び、雨の奥へと溶けていった。
わざと逃がしたわけじゃない。いや、逃がしてしまったのか。ローザは自問自答するも答えは出なかった。
「追え!」
怒声が飛ぶ。それと同時に、ローザの背へ疑いの視線が突き刺さった。
――わざと逃がした。
誰も口にはしない。それでも、そう告げられているのが分かった。
追跡は城門前で途切れた。門は降り、鎖は重い。ネイの影は消え、ただ雨脚だけが強くなっていく。
ローザは立ち尽くし、空を見上げた。
雨は冷たい。なのに、胸の内に残った迷いだけが、妙に熱を持っていた。
総将室へ向かおうと踵を返した、そのときだった。
視線の先に、ひとりの女隊士が立っていた。
黒髪。濡れた外套。特務隊にいた、あの女だ。
見たことがある。そんな気がする顔だった。
だが、記憶の底から引き上げようとしても、指先が空を切る。掴みたくても掴めない感覚だけが残る。
瞬きをした、その間。
女は、雨の中へ静かに消えていた。




