第9話 異端の烙印
落とされた言葉に、血の気が引く感覚が全身を駆け抜けた。
理解が追いつかない。脳裏が真っ白になる。なぜ、この装飾物から亡国デラヴイユの名が出る。
これは母、アンの形見だ。母はアンブラージュ王国ゼンブラの出身で、のちにハーデンベルグ公国へ居を移したと聞いている。母の歴史にデラヴイユなど、一言も――。
……いや。本当に“一言も”聞いていないのか。
そう思い出そうとした瞬間、記憶の継ぎ目が歪んだ。砂がこぼれ落ちるように、輪郭だけが崩れていく。母の声も、匂いも、手のぬくもりも、手触りばかりが先にほどけていく。肝心の言葉にだけ、指が届かない。
大広間は、静寂に包まれていた。さきほどまで渦巻いていた歓呼は、もうない。扇の鳴子も止まり、聖歌も途切れ、誰もが息をひそめている。
静けさの中で、マリーは瞬きすら忘れ、ローザは硬直し、ロッシュは口を開けたまま動かず、メグは目を大きく見開いていた。
「その王紋の由来を問う」
教皇が重い口を開いた。視線だけで人を縛るような声だった。杖先の金具が、かすかに鳴る。その一音だけで、大広間の呼吸がさらに浅くなる。
「こ、これは……母の形見にございます。それ以上でも、それ以下でもございません」
自分でも聞き慣れないほど高い声だった。焦りが、勝手に喉を持ち上げている感覚。教皇とグラーフ、そしてマリーの視線が、ネイの胸元へ釘づけになっている。
「それは、いかなる由来であれ、一介の兵が帯びてよいものではない。もしそれが盗品であれば……」
杖先が床石を一打した。秩序の枠そのものが、音となって落ちてくる。
「異端に値する」
――異端。
その二文字が、刃のように胸へ刺さった。
諸侯の列は沈黙し、使節たちの視線が交差する。下階では、市民や巡礼僧たちの目が、ネイの装飾物へ吸い寄せられていた。
焦りに呑まれ、身体が強張りきっていることに、ようやく自分で気づく。
「ルクス教正典は“破戒・掠奪”を禁ずる。聖なる紋の不法取得は、その最たるもの。聖都にて正式な審問の儀を――」
教皇は、ひとつひとつの言葉を、逃げ道を塞ぐように置いていく。
そのときだった。
「猊下、提案がございます」
低く鋭い声が、教皇の言葉を断ち切った。
グラーフ公が一歩前へ出る。黒礼に揺れる金鎖が、喪と責務の輪郭を重ねていた。
「ネイ・カイザーハインは獅帝戦団所属の隊士です。戦団にて一時預かりとさせていただき、我らが調査のうえで聖都へ報告いたします。いまこの場で処断すべき性質ではありますまい」
ネイは目を見開き、唾を飲み込んだ。現状に鑑みると、それは救済ではない。ただ単に、猶予が生まれただけだ。
教皇は瞼を半ば伏せ、ひと呼吸ののちに頷いた。
「……よかろう。だが、今のローザリアに、聖都以外でこの紋があるという事実は軽んじられぬ。期限は七日間だ」
杖先が、もう一度床石を打つ。
その一打で、止まっていた拍が戻った。だが、それは祝祭の拍ではない。判決の猶予を刻む拍だった。
グラーフ公は視線だけでソレイユを呼び、耳許へ短く指示を落とす。ソレイユは顎ひとつで承り、後列の黒髪の女剣士へ、合図とも呼べぬ何かを送った。
それだけで列の密度が変わる。上階の扇が一斉に閉じ、白百合の幕が細く揺れた。
「ネイ――」
ローザが半歩、前へ出る。明らかに不安な表情を見せている。ロッシュの拳は腰の横で震え、メグは両手で口を押さえたまま立ち尽くしている。
ネイは振り返り、わずかに笑って首を振った。――笑えていたかどうかは、自分でも分からない。顔の皮膚だけが、自分のものでなくなったような感覚だった。
儀は何事もなかった体裁で、すべてが上塗りされていく。
だがネイの記憶に焼きついたのは、胸元で揺れた青の一閃と、教皇が落とした“異端”という言葉だった。
――母上。あなたが残したこれは……いったい、何なのですか。
心の中で問うが、返事はない。
母の横顔を思い浮かべようとした途端、記憶の輪郭はまた霧のようにほどけていった。
*
その日のうちに、ネイはハーデンベルグの獅帝戦団詰所へ移送された。
厚い扉の金具が低く鳴り、尋問室の冷気が肌にまとわりつく。つい先ほどまで祝祭の歌を聞いていた耳が、いまは水滴の落ちる音さえ拾ってしまう。
扉の外で足音が止まり、取っ手が回る音が聞こえる。
尋問が始まる――そう身構えた、そのときだった。
「……殿下!?」
入ってきたのは、意外にもソレイユだった。
ネイが立ち上がるより早く、片手が軽く上がる。姿勢はいつも通り。だが、声だけがわずかに低い。
「ネイ。大変なことになってしまったな」
口の端に浮いたかすかな笑みは、すぐに消えた。
ソレイユは机に両手を置き、わずかに身を折る。扉の隙間と影をひと目で測り、落とした声は、外へ漏れぬ音量だった。
「――ロサマリアへ行け」
あまりに意外な言葉に、ネイは返す言葉を失った。
「その装飾物の謎を調べるんだ。疑いを晴らすには、それしかない。ここに留まれば、異端嫌疑者という事実だけが積み上がってしまう」
声は冷静だった。だが目には、確かな熱があった。
「しかし、これは本当にただの母の形見で――」
「それ以上でも以下でもない……だろ?」
ネイの言葉を、ソレイユは短く遮る。
「聖都ルクス=アークとデラヴイユは密接な関係にあったとされる。ルクスの叡智はデラヴイユに授けられ、秩序は聖都が守った。デラヴイユが滅んだ今、その王紋は聖都の保管庫に封ぜられるべき“聖紋”だ。……だから聖都は過敏になる」
言葉を刻むように続ける。
「今のままなら処断は早い。移送、審問、そして――何も証明されなければ」
ソレイユはそこで一拍、瞼を伏せた。
「――死罪だ」
喉が乾いた。同じ日のうちに、自分の死に方の話を聞くことになるとは思わなかった。
「だからロサマリアだ。聖都の秩序のもとにある街。あそこなら獅帝戦団でも容易には手を出せん。書記官、古物商、噂――証拠の端緒は拾える」
ソレイユは短く息を切る。
「手掛かりを探せ。お前の名と剣を、“異端者”にするな」
その言葉が、まっすぐネイの胸を押した。
教皇の眼が脳裏によみがえる。秤の皿の上に、名も素性も薄い孤児出の兵士が、“異端者”として投げ出される光景が浮かんだ。その秤に載せられるのを、ただ待つのか。
「逃げるのではなく……証を掴みに」
言いながら、自分の喉の奥が震えているのを知る。
怖い。たしかに怖い。
だが、恐れているからこそ分かる。ここで立ち止まれば、その恐れの形のまま終わる。
「進むしかない」
そう理解した瞬間、強張っていた肩の力がふと抜けた。ソレイユはネイの様子を見て静かに頷く。
「……承知しました。ご厚意、感謝いたします」
声は震えなかった。震えが消えたのではない。震えごと前へ押し出したような感覚だった。
「今宵のうちに行け。体裁上、戦団はお前を追わざるを得ないが、情報は操作しておく。門番も移動させる。だが、焦りは禁物だ。静かに動け」
扉を半ばまで閉じかけ、ソレイユはもう一度だけ振り返る。その目に、かすかな痛みが宿っていた。
「生き延びろ、ネイ。お前の剣が守るべきものは、まだ先にある」
扉は完全には閉じず、指一本ぶんの隙間を残した。厚い壁が遠ざかる足音を吸い込み、静けさの輪郭を整えていく。
ネイは椅子の背に両手を置き、呼吸を整えた。胸元へ自然に手が上がる。衣の内で小さな金具が擦れ、涼しい拍がひとつ、心の奥へ落ちた。
そしてネイは、静かに扉を開き、外へ出た。
*
夜風が外套の裾をはためかせ、肩口の革が柔らかく鳴った。
こんな形で故郷を去ることになるとは、夢にも思わなかった。
目指すは、聖都ルクス=アーク特別自治区、ロサマリア。宗務と世俗が折り重なる灰色の街。巡礼と商い、祈りと欲得が、同じ路地で肩を触れ合わせる場所。
七日で証を掴めるのか。――掴むしかない。掴まなければ、終わってしまう。
ネイは、闇に包まれた空を見上げた。真上の雲行きは怪しい。だが西の空は晴れている。
そこには満月が浮かび、その傍らを、淡い緑の帯がゆっくりと流れていた。
――帳が降りるとき、人は試されん。
「ならば……応えてみせる」
自然と声が漏れた。
雨が一粒、頬を濡らす。次いで、もう一粒。音にもならぬ雨が、少しずつ数を増していく。
ネイは一歩を踏み出した。
生き延びろ。掴め。
亡国デラヴイユの王紋が、なぜ自分の手にあるのかを。




