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双貌のローザリア  作者: あかまる
第1章 微光

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プロローグ 名を捨てた夜

 空が、燃え落ちていた。


 炎が夜を押し潰す。侵略国の投石機が低く唸り、火石が雨となって降り注いだ。


 石畳が跳ね、家々が裂ける。柱廊は呻きを残して崩れ、裂けた梁が火を噴いた。屋根を走る焔は風に煽られ、壁を喰らいながら伸びていく。


 白い大理石は赤黒く滲み、都は燃えながら輪郭を溶かしていった。もはや救いの形を、ひと欠片も留めていない。


 若き王子レオンは外套の裾を握りしめ、炎の裂け目を縫うように走った。汗が目に滲む。喉の奥が焦げつく。吸い込む空気は熱く、咳が込み上げるのを必死に噛み殺した。


 逃げることしかできない。その事実が、心を何度も抉った。


 だが、生きねばならない。王家の血を、この夜で絶やさぬために。


 ――落ち着け。嘘でもいい。落ち着け。


 胸元の装飾を握りしめる。乱れた鼓動が、ほんのわずか鎮まった気がした。


 先を走るのは従者にして指南役――騎士グラウカ。薄煙の裂け目から差す火の反射が、その鋭い眼差しを照らす。


 彼は振り返らない。首だけをわずかに巡らせ、進むべき道を探り続けていた。その背だけが、いまのレオンにとって唯一の“希望”だった。


「殿下、東の排水路しか道はございませぬ。ただし、巡視に見つかれば――」


「その道しかないなら、進む!」


「御意!」


 二人は息を切らせながら石段を駆け下りた。背後で塔が軋み、次の瞬間、瓦礫の雨が落ちる。熱風が背を掴み、外套が大きく翻った。


 人影はない。あるのは崩れゆく家々、風に舞う火の粉、そして角笛――侵略軍が迫る合図のみ。


 排水路へ転がり込んだ瞬間、息が喉で詰まった。レオンは外套で口元を覆い、息を殺す。


 天井の向こうで鎧が擦れる金属音が連なり、怒涛のように通り過ぎていく。やがて音が遠のき、二人は同時に身を起こし、暗闇の先へと進んだ。


 天井から落ちる水滴が頬を打つ。焼けた皮膚に水が染み、反射的に歯を食いしばった。だが、痛みは生きている証だと言い聞かせ、さらに先へと進む。


 ――そのときだった。


 半ば崩れた穹窿の下に、ひとりの女が座り込んでいる。黒い布に包まれた赤子を抱え、濡れた石壁にもたれていた。


 額は汗で光り、唇は乾いて割れ、体は小さく震えている。脚はもう、立ち上がる力を失っている。それでも腕だけは、布の包みを離さない。


 この小さな命を抱き、ここまで逃れてきたのだ――言葉なく、そう告げていた。


 レオンは駆け寄り、膝をついた。


「大丈夫か!」


 女はかすかに目を動かした。消えかけた瞳に、最後の灯がともる。焦点が結ばれるまで、わずかな時間が要った。それでも確かに、その瞳はレオンを捉えた。


「……殿下……どうか……この子を……ノワールを……」


 言葉が途切れるのと同じ速さで、息も途切れた。女の指が布の端を探り当て、そこで止まる。小さく痙攣し、腕から力が抜け、頭が石壁へ沈んだ。


 布の包みだけが温もりを守ろうとして、小さく震える。赤子の喉が、かすかに鳴った。


 グラウカが一歩進み、静かに首を振る。


「殿下。赤子を連れての逃走は――」


「救う!」


 静止を鋭く遮り、レオンは布の包みを抱き上げた。


 赤子を連れての逃亡が危険だと、理解はしている。だが、この赤子の母親が決死の思いで繋いだ小さな命。レオンは“救わねばならない命”だと、迷いなく決めていた。


「……殿下は、変わらずお優しい」


 グラウカは目を伏せ、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。


「先を急ぎましょう」


 二人は排水路を抜け、影のように走り続けた。城壁沿いの側道。草の伸びた斜面。


 走り続けた先。並木の切れ目で、ふいに影が立った。


 二人は目を見開き、足を止める。


 槍を持つ中年の兵士。胸当てには白百合の紋章――侵略国、アンブラージュ王国の印。裂けた藍の房が煤に汚れた鎧の上で頼りなく揺れ、鎧の隙間から古い傷がのぞいていた。


 兵士と二人は、時が止まったように視線を交わす。


 グラウカは咄嗟に半身となり、レオンと赤子を背に隠す。右腰の剣に手を添え、左足を砂に据える。


 斬るなら一太刀。躊躇はいらない――身体が先に答えを出していた。


 兵士は槍を構えると、目前の顔を順に見た。そして、ノワールの顔で視線を止める。


「……赤子か」


 槍先が、わずかに下がった。


「獅子王は……何度、この夜を繰り返す」


 男の眼の底に、別の火が揺れた。燃えたのはこの都だけではない。古傷と憂いを湛えた目が、それを語っている。


 兵士は一瞬だけ目を閉じる。そして開いたとき、落とされた言葉は意外なものだった。


「……先へ参られよ」


 レオンとグラウカは息を呑んだ。グラウカの指が、音もなく剣から離れる。男は静かに道の脇へ身を引いた。


「このご恩、忘れません」


 レオンは短く頭を垂れる。グラウカも一礼し、二人は兵士の横を駆け抜けた。


 腕の中のノワールは、胸の鼓動に合わせて小さく揺れている。背後で槍が地を叩く音がした。見送る合図にも、見張る合図にも聞こえた。


 並木を抜けると、歩調がわずかに戻る。城の輪郭は遠のき、炎は夜風に散る。丘の稜線が月の光に照らされていた。


「殿下、ここで一息を。月明かりが強うございます……窪みなら、身を隠せるかと」


「……ああ」


 レオンは頷き、窪みに身を沈め、ノワールの様子を確かめる。名を呼ぶと睫毛が震え、希望を掴み取ろうとするように小さな手が宙をかいた。その仕草が、レオンの喉の奥を締めつけた。


「ノワール……闇の中でも強く生きよ、と。その名を授けられたのだろう。……何たる悲劇か」


 伸ばされた手をそっと握り、レオンは目を潤ませる。


 ふと、一人の男の顔が脳裏をよぎった。


 ――ギュスターヴは……生き延びているのだろうか。


 王国随一の科学技術者にして宰相。国の心臓部を守ってきた男の安否が、思考の端に貼りつく。


 だが、ここで戻ることはできない。戻れば、この小さな命も、自らの命も――王家の血も、何もかもが守れなくなる。彼が無事に逃げ、生き延びていることを祈るしかない。


 レオンは断ち切るように息を吐いた。そして立ち上がると、その場を駆け出した。


 やがて二人は林を抜ける。風向きが変わり、焼けた匂いはさらに遠のく。駆け抜けた先、そこは国境線だった。


 小高い丘を這い上がると、満月が夜を支配していることに気付く。


 そのとき、遠い空の一角が、薄く緑に震えた。緑の帯は幾重にも重なり、縫うように広がって、夜の天蓋に静かな幕を引く。


 その美しさが、かえって残酷に見えた。故郷が燃えていてもなお、空は平然と、美しく彩られている。


「……見えるか、グラウカ」


「はい……なんと美しい」


 二人は淡い緑に彩られた空を見上げた。言葉は、それ以上いらなかった。


 脳裏に浮かんだのは、ルクス教正典の一文。


「……あれは、“帳”なのか」


「……“帳が下りるとき、人は試されん”……で、ございましたな」


 淡い緑を見つめたまま、グラウカは静かに言葉を落とす。


「ならば……応えよう」


 レオンの目が、わずかに細くなる。その目は、もはや逃げる者の目ではなかった。


 レオンは焦土と化す故郷を胸に焼き付けるように見つめ、静かに拳を握る。


「生き延びてみせる。生きていれば、やり直せる……」


 眼差しは憂いに満ちながら、それでも折れていない。


「そして、いつの日か――共にデラヴイユを復興させよう」


 レオンは力強く決意を語った。グラウカは静かに膝をつき、頭を垂れる。


「必ずや……騎士の誓いにかけて、私が殿下をお守りいたします」


 その声には、従者の域を超えた、騎士としての鉄の意思があった。


 レオンは胸元の青い薔薇の装飾を静かに握りしめた。心を鎮めるためではない。決意のためだ。


「名は盾だ。だが、これからは刃にもなる……この先、我らは名を捨てるのが賢明だろう」


 ――名は重い。受け継いだものは、ルクス神に選ばれた“器”という名の、誇り高き王家の血だ。捨てられるはずがない。だが名は“標”になる。あらゆる危機を避けるため、いまは捨てる。


 生き延びるため。やり直すために。


 最後に空を見上げる。炎の照り返しで、空は鮮やかな茜に燃え、やがて灰に沈んでいく。そして故郷は亡国と化すのだろう。


 だが必ず、いつの日か、このデラヴイユを復興させてみせる。


 その思いと共に、彼らは漆黒の方角へ駆けだした。


 レオンとグラウカ、そして赤子ノワール。


 三つの影が、このローザリア大陸に“二つの貌”を刻み、やがて悲劇の結末を迎えることを――このときはまだ、誰も知る由がなかった。


 ――名を捨てた夜こそ、名に囚われる宿命の始まりだったのだ。

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