第9章 止まった森の子
森の中は、音が少なかった。
風が枝を揺らす音も、
雪が落ちる音も、
どこか途中で止められたように途切れている。
ミレイは、慎重に歩いた。
踏みしめた雪が、きらりと光る。
それだけが、この森で“動いている”証のようだった。
しばらく進むと、開けた場所に出る。
そこに――子どもがいた。
年は、ミレイよりずっと幼い。
灰色の外套を着て、倒れた木のそばに立っている。
いや、立っている、のではない。
止まっていた。
瞬きをしない。
息の白も出ない。
まるで、時間の中に閉じ込められた人形。
「……こんにちは」
声をかけても、返事はない。
ミレイは、そっと近づいた。
胸元の懐中時計が、重くなる。
針の動きが、少し遅い。
「時間が……絡まってる」
彼女は、直感的に理解した。
この子は、
何かを失った瞬間で、止まってしまったのだ。
ミレイは、工具袋を下ろす。
けれど、時計を直す時のようには動けなかった。
歯車は見えない。
壊れている場所も、わからない。
代わりに、胸に浮かんだのは、
自分自身の過去だった。
――止まったままの時間。
ミレイは、子どもの前に膝をついた。
「……名前、ある?」
当然、返事はない。
それでも、ミレイは話し続けた。
雪の町のこと。
時計屋のこと。
母のこと。
言葉は、魔法じゃない。
けれど、触れることはできる。
しばらくすると、懐中時計が鳴った。
カチリ。
いつもより、強い音。
子どもの指先が、わずかに動いた。
ミレイは、息を呑む。
「……大丈夫。
戻らなくていい」
かつて、自分に向けて言われた言葉。
それを、今度は他人に渡す番だった。
森の空気が、わずかに流れ出す。
止まっていた音が、
ゆっくりと、戻り始める。
子どものまぶたが、震えた。
まだ、目は開かない。
けれど――
時間は、動き始めている。
ミレイは、そっと立ち上がった。
この森での役目は、
直すことではない。
待つこと。信じること。
それもまた、時間と歩くということだった。
森に、音が戻っていた。
枝がきしむ音。
遠くで雪が崩れる音。
そして――小さな、呼吸の音。
ミレイは、振り返る。
倒れた木のそばで、あの子どもが座り込んでいた。
灰色の外套の袖を、ぎゅっと握りしめている。
「……さむい」
それが、最初のひとことだった。
ミレイは、胸が締めつけられるのを感じながら、
ゆっくりと近づいた。
「寒いね」
そう答えると、子どもは顔を上げた。
大きな目。
泣いていないのに、涙の跡が残っている。
「ここ……どこ?」
「森だよ。
でも、もう動いてる」
子どもは、首をかしげる。
「……動くって?」
ミレイは、しばらく考えた。
難しい言葉は、いらない。
「息ができること」
「寒いって言えること」
「今、話してること」
子どもは、指を一本ずつ動かして確かめる。
「ほんとだ……」
その声は、かすれていたけれど、確かだった。
ミレイは、外套を脱ぎ、そっと子どもにかけた。
「名前、教えてくれる?」
少しの間があって、子どもは答えた。
「……ルカ」
その瞬間、森の光が、わずかに強くなる。
名前は、時間を結び直す。
ミレイは微笑んだ。
「私はミレイ」
ルカは、何度かその名前を口の中で転がす。
「ミレイ……
あのね」
言葉が、途中で止まる。
喉の奥で、何かが引っかかっている。
ミレイは、急がせなかった。
懐中時計の音が、一定のリズムを刻む。
カチリ。
カチリ。
「……ぼく、
帰る途中だった」
ルカの声が、震えた。
「雪が、きれいで……
それで」
言葉は、そこまでだった。
ミレイは、そっと頷く。
「続きを、歩けばいい」
ルカは、不安そうにミレイを見る。
「ひとりじゃ、ない?」
ミレイは、答えを急がなかった。
少しだけ間を置いてから、言った。
「今は、いっしょ」
それで、十分だった。
森の奥から、風が吹く。
止まっていた時間は、もうない。
ただ、ゆっくり歩き出す冬があるだけだった。




