第8章 扉の向こうの冬
ミレイは、店の扉の前に立っていた。
古い木の扉。
何度も塗り直された跡があり、取っ手は少し冷たい。
この扉の向こうで、彼女はずっと生きてきた。
時計を直し、時間に触れながら、
自分自身の時間だけは動かさないまま。
カチリ。
胸元で、小さな音がした。
雪時計ではない。
いつも使っている、簡素な懐中時計だ。
母の形見でも、不思議な力を持つものでもない。
ただ、今のミレイが選んだ時計。
「……行こう」
扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。
けれど、痛くはない。
むしろ、目が覚めるような清さだった。
町は、昨日までと同じ姿をしている。
屋根の雪、石畳、遠くの時計台。
それなのに、どこか違う。
人々が、前を向いて歩いている。
急がず、立ち止まりすぎず、
それぞれの速さで。
ミレイは、店の鍵を閉めた。
その音は、終わりではなく、区切りの音だった。
歩き出すと、子どもたちの笑い声が聞こえる。
「見て、光ってる!」
指さされた先には、
溶けかけの雪が、朝日に反射してきらめいていた。
ミレイは、思わず足を止める。
昔なら、目を逸らしていた光。
今は、ちゃんと見られる。
――怖くない。
時計台の鐘が鳴る。
ゴォン。
正しい時刻。
正しい響き。
ミレイは、胸に手を当てた。
「私は、ここにいる」
誰に聞かせるでもない言葉。
それでも、確かに意味を持っていた。
町の外へ続く道が、見える。
まだ歩かなくてもいい。
でも、歩けると知ったことが、何より大切だった。
ミレイは、ゆっくりと息を吸う。
冬は、終わっていない。
けれど――
閉じた冬ではなくなった。
雪は、きらめきながら、静かに降り続けている。
町の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
同じ冬のはずなのに、外の世界は少しだけ広く、
少しだけ自由な匂いがした。
ミレイは、外套の裾を押さえながら歩く。
足元の雪は、踏むたびにかすかな光を散らした。
道が――きらめいている。
誰かが意図して作った道ではない。
雪が、光を覚えているだけだ。
ミレイは、立ち止まり、振り返る。
町は、もう遠くない。
それでも、確かに一歩、外へ出た。
胸元の懐中時計が、静かに鳴る。
カチリ。
カチリ。
その音は、方向を示しているようだった。
「迷わない、ってことか」
ミレイは、小さく笑った。
遠くに、森が見える。
その奥で、光が揺れた。
雪の反射ではない。
もっと、意志を持った輝き。
――行きなさい。
風が、そう言った気がした。
ミレイは、森へ向かう道を選ぶ。
理由は、ない。
理由がいらなくなっただけだった。
歩くほどに、足跡は消えていく。
代わりに、進んだ先が、淡く光る。
まるで、未来が後から形になるみたいに。
森の入り口で、ミレイは一度、立ち止まった。
ここから先は、
時計を直すだけの旅ではない。
誰かの時間に触れ、
自分の時間も進める旅だ。
深く息を吸う。
冷たい空気が肺を満たし、
胸の奥で、確かな熱に変わる。
ミレイは、歩き出した。
きらめきの道しるべは、
もう足元ではなく、心の中にあった。




