第4章 雪の使い
コン、コン。
もう一度、扉が叩かれた。
ミレイは、しばらくその音を見つめるように立ち尽くしていた。
外は静まり返っている。
雪の音だけが、空気を満たしていた。
キラキラ。
キラキラ。
ミレイは深く息を吸い、扉を開けた。
そこに立っていたのは、人ではなかった。
少年の姿をしている。
けれど、肌は白く、雪のように淡く透けている。
目は夜空の星を閉じ込めたように、静かに瞬いていた。
「こんばんは」
声は、ひどく澄んでいた。
冷たいはずなのに、なぜか耳に優しい。
「……あなたは」
ミレイの問いに、少年は一歩、前に出る。
「ぼくは、雪時計の使い」
「時間が迷ったときに、呼ばれる存在」
ミレイは、無意識に作業台の雪時計を見た。
光が、先ほどよりも強くなっている。
「さっきの人……あの時計を持ってきた人は」
「人ではないよ」
少年は、穏やかに言った。
「ただの、届け役」
ミレイの胸が、少しだけ早くなる。
「この町の時間が、止まった」
少年は続けた。
「きみが、雪時計を開いたから」
「……私のせい?」
「違う」
即座に、首が振られる。
「必要だったんだ」
少年は、店の中を見回した。
壁一面の時計、規則正しく止まった針。
「ここには、たくさんの時間がある」
「でも、きみの時間だけが、いちばん深く止まっている」
その言葉に、ミレイは息をのんだ。
「直せるの?」
ミレイは、問いを投げた。
「その雪時計」
少年は、少しだけ困ったように笑った。
「直せる。でも――代償がある」
「代償?」
「ひとつだけ、選ばなきゃいけない」
「取り戻すか、手放すか」
ミレイの視線が、無意識に、引き出しの奥へ向かう。
止まった懐中時計のある場所。
「時間は、全部は戻らない」
少年は静かに言った。
「キラキラは、奇跡じゃないから」
外で、雪がいっそう強く鳴った。
キラキラ、キラキラ。
その音は、ミレイの胸の奥で、初めて痛みを伴った。
「考えて」
少年は、扉へ向かう。
「雪がいちばん鳴くころまでに」
扉が閉まる。
時間の止まった町で、
ミレイだけが、選択を迫られていた。
雪時計は、音を立てない。
ちくたく、とも鳴らず、針が進む音もしない。
けれど、確かにそこに「時間」がある。
ミレイは、作業台の上の雪時計を見つめていた。
少年が去ったあと、町は完全に静まり返っている。
窓の外では、雪だけが鳴っていた。
キラキラ。
キラキラ。
雪時計の文字盤は、普通の時計とは違っていた。
数字の代わりに、淡い光の輪がいくつも重なっている。
ミレイが指先で触れると、輪がゆっくりと揺れた。
その瞬間――
視界が、白く滲んだ。
幼い自分が見えた。
母と並んで歩く、冬の朝。
「寒い?」
「ううん」
母の手は、あたたかい。
懐中時計が、胸元で静かに揺れている。
ミレイは、はっとして手を離した。
「……記憶?」
雪時計は、答える代わりに、弱く光った。
少年の言葉を思い出す。
――持ち主の、いちばん大切な時間を映す。
この時計に映っているのは、
誰かが守りたかった時間。
失いたくなかった時間。
そして、失ってしまった時間。
ミレイは、工具を置いた。
歯車を直すだけでは、足りない。
これは、壊れた機械ではない。
迷っている時間なのだ。
雪時計は、修理を待っているのではなかった。
「選択」を、待っている。
外で、風が吹いた。
雪の音が、少しだけ高くなる。
キラキラ、キラキラ。
まるで、背中を押すように。
ミレイは、引き出しを開け、
止まったままの懐中時計を取り出した。
二つの時計を、並べて置く。
ひとつは、進まない時間。
ひとつは、戻ろうとする時間。
どちらも、冷たくて、
どちらも、手放したくなかった。
ミレイは、初めて思った。
――時間を、直したい。
それが、どんな結果を連れてくるとしても。




