第3章 壊れた懐中時計
その懐中時計が持ち込まれたのは、昼と夕方の境目だった。
空は薄く紫がかり、雪は音もなく降っている。
いつもなら、もう客は来ない時間だ。
コン、と扉が鳴った。
ミレイは顔を上げる。
そこに立っていたのは、見覚えのない男性だった。
年齢はわからない。若くも老いても見えない、不思議な雰囲気をしている。
「修理を、お願いしたい」
差し出されたのは、懐中時計。
だが、それは普通のものではなかった。
金属のはずの表面が、わずかに光を含んでいる。
まるで、雪の結晶を閉じ込めたような輝き。
ミレイは、ほんの一瞬だけ、ためらった。
「……見てみます」
時計を受け取った瞬間、指先がひやりとした。
冷たいのに、不思議と嫌な感覚ではない。
裏蓋を開ける。
中の歯車は、絡まっていた。
壊れているのではない。
時間そのものが、迷子になっているようだった。
「直りますか?」
男の声は、静かだった。
ミレイは答えなかった。
代わりに、時計に耳を近づける。
――キラキラ。
かすかな音が、確かに聞こえた。
ミレイの胸が、小さく鳴った。
キラキラが、嫌いなはずなのに。
「……時間が、泣いてます」
思わず、口に出ていた。
男は、少しだけ目を細めた。
「やはり、君に頼んで正解だった」
ミレイは顔を上げる。
「これは、普通の時計じゃない」
「ええ。雪時計です」
その言葉に、空気が変わった。
ミレイは、初めて聞く名前なのに、なぜか懐かしさを覚えた。
「持ち主の、いちばん大切な時間を映す時計です」
「壊れることもあるんですか」
「大切すぎると、壊れます」
ミレイは、懐中時計を見つめた。
光は弱く、今にも消えそうだった。
「直すには……少し時間がかかります」
男は、うなずいた。
「構いません。夜までに」
そう言って、彼は扉へ向かう。
「……名前は?」
ミレイが尋ねると、男は振り返った。
「名乗るほどのものではありません」
そして、微かに笑った。
「今夜、雪が鳴るころに、また来ます」
扉が閉まる。
店内に残されたのは、
ミレイと、光を失いかけた雪時計だけ。
ちくたく、ちくたく。
周囲の時計が、いつもより大きく音を立てている気がした。
ミレイは、そっと懐中時計を両手で包んだ。
キラキラ。
その音は、確かに、彼女の心にも触れていた。
夜になると、雪の音は変わった。
昼間のキラキラが、遠慮がちな鈴の音だとしたら、
夜のそれは、深く、はっきりとした響きだった。
ミレイは店を閉めても、眠れずにいた。
作業台の上には、あの雪時計。
ランプの光を受けて、弱く瞬いている。
裏蓋を開け、歯車を一つひとつ確かめる。
絡まり合った光が、指に触れるたび、ひんやりと逃げた。
「……時間が、ほどけない」
工具ではどうにもならない。
歯車は壊れていないのに、進もうとしない。
そのとき――
キラキラ。
はっきりと、音が聞こえた。
ミレイは顔を上げる。
窓の外、雪がいつもより強く光っている。
まるで、町全体が呼吸しているようだった。
キラキラ、キラキラ。
音は、遠くからではない。
家の周り、足元、空気の中――すべてから鳴っている。
ミレイは、そっと扉を開けた。
冷たい夜気が流れ込む。
雪は、静かに、しかし確かに鳴いていた。
通りに人影はない。
時計台の針が、真夜中を指している。
その針が、わずかに、揺れた。
「……?」
次の瞬間、町の時計が、一斉に止まった。
ちくたく、という音が、消える。
代わりに、雪の音だけが残った。
キラキラ。
キラキラ。
ミレイの胸が、どくん、と鳴る。
世界の時間が、息を止めたようだった。
その中で、彼女の手の中の雪時計だけが、微かに光る。
――コン、コン。
扉を叩く音。
ミレイは、ゆっくりと振り返った。
音は、現実であることを、疑わせないほど、はっきりしていた。
キラキラと鳴る雪の夜に、
何かが、確かに訪れようとしている。




