第2章 止まったままの時間
夜になると、ミレイの家はいっそう静かになる。
店を閉め、シャッターを下ろし、ランプに火を灯す。
その光の下で、無数の時計が影を落とし、壁一面に時間の輪郭を映していた。
ちくたく。
ちくたく。
規則正しい音。
狂いのない、正しい時間。
ミレイは作業台に腰を下ろし、引き出しの奥から、ひとつの懐中時計を取り出した。
古く、小さく、傷だらけの時計。
針は十二時を少し過ぎたところで、完全に止まっている。
――三年前の、あの日と同じ位置。
ミレイは、ゆっくりと裏蓋を開けた。
中の歯車は壊れていない。錆もない。
部品を交換すれば、きっと動くはずだった。
それでも、この時計だけは、直さなかった。
直せなかったのではない。
直さなかったのだ。
ミレイの脳裏に、あの日の光景が浮かぶ。
雪の降る朝。
母は外套を羽織り、戸口で振り返った。
「すぐ戻るわ」
その声は、軽くて、あたりまえで、疑う余地などなかった。
ミレイはうなずき、懐中時計を手渡した。
「時間、忘れないでね」
母は笑った。
「大丈夫。これがあるもの」
それが、最後だった。
雪はその日も、キラキラと鳴っていた。
町の誰もが聞いていたはずの音を、ミレイは覚えていない。
覚えているのは、ただ、待ち続けたことだけだ。
日が暮れても、夜になっても、母は戻らなかった。
時計は止まり、扉は開かず、時間だけが置き去りにされた。
ミレイは、懐中時計をそっと閉じた。
「……時間は、進んでる」
誰にともなく、そう呟く。
進んでいるのは、世界の時間だけだ。
自分の時間は、あの日から、ここで止まったまま。
壁の時計が、深夜を告げる。
ちくたく、ちくたく。
正しい音が、少しだけ、うるさく感じられた。
ミレイはランプを消し、暗闇の中で目を閉じる。
もし、時間を直せるなら。
もし、あの日に戻れるなら。
その考えは、すぐに胸の奥へ押し込めた。
直せないものもある。
取り戻せない時間もある。
そう信じなければ、前にも後ろにも進めなかった。
雪は、外で静かに鳴り続けている。
止まった時間を、知らないまま。
ミレイは、キラキラが嫌いだった。
町の人々がそう呼ぶ、雪の音も、光も、すべてが。
朝、店を開けると、通りは冬の光で満ちていた。
屋根の上の雪が陽を反射し、空気そのものが輝いているように見える。
「今年の雪は、よく鳴くねえ」
「きっと、いい冬になるわ」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
ミレイは、聞こえないふりをして、看板を外に出した。
手は冷たいのに、動きは迷わない。
町の子どもたちは、雪の音を探すように走り回っていた。
立ち止まり、耳を澄まし、顔を輝かせる。
「聞こえた!」
「今の、キラキラだよね!」
その姿を見て、ミレイは視線を逸らした。
キラキラは、優しすぎる。
あまりにも、何もかもを美しく包み込んでしまう。
まるで、失ったものなど最初からなかったかのように。
昼過ぎ、常連の老婦人が店を訪れた。
手に持っているのは、古い置き時計だ。
「これね、夫の形見なの」
「止まってしまって……」
ミレイは黙って受け取り、うなずく。
歯車を整え、針を戻す。
ほどなく、時計は正しく時を刻み始めた。
「ありがとう」
老婦人は、少し涙ぐんで笑った。
その笑顔を見て、ミレイの胸が、ほんのわずかに痛んだ。
――直ってしまえばいいのに。
時間も、記憶も、気持ちも。
老婦人が帰ったあと、店内は静かになる。
ちくたく。
ちくたく。
ミレイは窓の外を見る。
雪が、静かに降っている。
キラキラ、と音がした気がした。
「……やっぱり、嫌い」
小さく呟き、ミレイはカーテンを引いた。
キラキラは、希望の音だと言われる。
未来の音だと。
でもミレイにとってそれは、
取り戻せないものを、思い出させる音でしかなかった。
今日も町は輝いている。
ひとり分の心を、置き去りにしたまま。




