第17章 最初の冬の記憶
白い世界が、ゆっくりとほどけていく。
光も、境界も、問いさえも、
いったん後ろへ下がった。
代わりに浮かび上がったのは――
古い冬の町だった。
石畳。
小さな家々。
窓辺に灯る、橙色の光。
「……ここ」
ミレイの声が、幼く響く。
「知ってる?」
ルカが尋ねる。
ミレイは、頷いた。
「私が、時計を直す前の町」
二人の足は、自然と歩き出す。
けれど、雪を踏む感触はない。
これは記憶だ。
時間は、再生されているだけ。
路地の角で、
小さなミレイが座り込んでいた。
膝を抱えて、
手袋もつけずに。
その前には、壊れた置き時計。
針は止まり、
ガラスは割れている。
「……あの日」
胸が、きゅっと縮む。
ルカは、何も言わず、
ただ隣に立つ。
大人のミレイは、
幼い自分に近づいた。
触れようとして――
手が、すり抜ける。
当然だ。
これは、過去。
「どうして、泣いてるの?」
誰にも聞こえない問いを、
それでも、投げかける。
小さなミレイは、
ぽつりと呟く。
「止まっちゃった……」
置き時計を指さす。
「直せない。
動かない」
雪が、降り始める。
ゆっくり。
優しく。
「お父さんが、直してくれたのに」
ミレイの呼吸が、浅くなる。
ルカが、そっと囁く。
「……誰?」
「時計師だった」
声が、少し震える。
「でも、その冬――」
言葉が、続かない。
代わりに、記憶が進む。
家の中。
暗い部屋。
止まった時計が、いくつも並んでいる。
そして、
帰ってこなかった背中。
小さなミレイは、
壊れた時計を抱きしめる。
「動かせたら……
帰ってくる?」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、
止まった時間に縋る声。
大人のミレイは、
その場に膝をついた。
「……違う」
過去には届かないと知りながら、
それでも、言う。
「時計は、戻せても、
人は、戻らない」
けれど。
それでも。
「でもね」
声が、やさしくなる。
「動かすことは、できる」
針は、未来へ向かうためにある。
小さなミレイが、
ふと顔を上げる。
一瞬だけ、
視線が、重なった気がした。
記憶が、静かにほどけていく。
白い世界が、戻ってくる。
問いの光が、そこにあった。
「……思い出した」
ミレイは、立ち上がる。
「私が、時間を直したかった理由」
ルカが、微笑む。
「進めるため?」
「ううん」
ミレイは、首を振った。
「置いていかれないため」
光が、強く瞬く。
選択の時が、近づいていた。
白い世界が、静かに息をする。
脈打つたび、
無数の冬の場面が、淡く浮かんでは消えた。
笑顔。
後悔。
取り戻せなかった瞬間。
光の存在が、改めて問いを差し出す。
「選びなさい」
声は、急かさない。
「一つだけを、
“確かな今”に」
ミレイは、懐中時計を見つめた。
針は、止まっている。
いや――
待っている。
ルカが、そっと言う。
「ミレイ」
「大丈夫」
彼女は、微笑む。
もう、迷いの震えはなかった。
ミレイは、一つの場面に近づく。
それは、
派手でも、悲劇的でもない。
ただ、雪の降る町角。
灯りのともる窓。
誰かが、誰かを待っている。
「これ?」
ルカが聞く。
「うん」
「理由は?」
ミレイは、少し考えてから答える。
「これは……
まだ終わってない冬だから」
光が、静かに頷く。
「過去でも、未来でもない」
「今、続いてる時間」
ミレイは、懐中時計を開いた。
針が、ゆっくりと動き出す。
カチ。
白い世界が、軋む。
拒絶ではない。
受け入れの震え。
「確かめる」
ミレイは、息を吸う。
「この“今”が、
誰かを置いていかないか」
光は、初めて笑った。
「それが、あなたの答え」
選ばれた場面が、
一気に色を取り戻す。
白が溶け、
音が戻り、
雪が、落ちる。
ミレイとルカは、
その中に、立っていた。
町の気配。
人の声。
確かな寒さ。
懐中時計は、静かに時を刻んでいる。
カチ、カチ。
光の存在は、もういない。
けれど、
その問いは、残った。
ミレイは、ルカを見る。
「……これで、終わりじゃないよね」
「うん」
ルカは、はっきり言う。
「始まり」
遠くで、
鐘が鳴った。
冬の町が、
新しい今を、受け入れる合図。




