第11章 ほんの一秒
時計塔の中は、静まり返っていた。
歯車の音が、しない。
それが、この町の異常さを物語っている。
ミレイは、慎重に階段を上った。
ルカは、少し遅れてついてくる。
「ねえ……怒られない?」
「怒られるかもね」
ミレイは、正直に答えた。
「でも、止まるよりはいい」
最上階に着くと、巨大な一本針の機構が現れた。
完璧に磨かれ、
誤差というものを拒絶する作り。
ミレイは、工具袋に手を伸ばす――
が、止めた。
「直さない」
代わりに、手袋を外す。
素手で、針に触れた。
冷たい。
凍るほどではないが、感情を持たない冷たさ。
「一秒だけ」
ミレイは、息を吸う。
針を、ほんのわずか、押した。
ギ……。
音がした。
それだけだった。
次の瞬間、町に変化が起こる。
遠くで、笑い声が一拍遅れる。
誰かが、転びそうになって踏みとどまる。
パン屋の扉が、いつもより早く開く。
「……ズレてる」
ルカが、目を丸くする。
「うん。生きてる」
ミレイは、そう答えた。
鐘が鳴る。
今度は、柔らかい音。
人々が、戸惑いながらも、
それぞれの動きを取り戻していく。
町長が、塔の下で叫んでいた。
「秩序が乱れる!」
ミレイは、窓から声を返す。
「乱れじゃない。
呼吸です」
ルカが、そっと言う。
「みんな、楽そう」
ミレイは、頷いた。
完璧な時間は、
誰も幸せにしない。
塔を出ると、町の空気は少し暖かくなっていた。
人々の歩く速さは、ばらばら。
でも、それが自然だった。
ミレイは、懐中時計を見る。
針は、安定して動いている。
「行こう」
ルカは、力強く頷いた。
この町での役目は、終わった。
ほんの一秒が、
世界を柔らかくしたのだから。
町を離れた夜、雪は降らなかった。
空は澄み、星が静かに瞬いている。
焚き火の前で、ミレイとルカは並んで座っていた。
炎の光が、二人の影を揺らす。
「ねえ、ミレイ」
ルカが、小さな声で言った。
「ミレイは、怖くないの?」
ミレイは、火を見つめたまま答えた。
「……あるよ」
正直な答えだった。
「進むのが?」
「進んだ先が、
私じゃなくなる気がして」
ルカは、首をかしげる。
「変わるの、だめ?」
ミレイは、少し考える。
「変わるのは、いい。
でも、置いていくのが、怖い」
「何を?」
ミレイは、懐中時計を取り出す。
炎が、ガラスに反射する。
「止まってた頃の自分」
ルカは、黙って聞いている。
「動き出した今、
あの時間は、もう戻らない」
それが、ミレイの恐れだった。
焚き火が、ぱち、と弾ける。
ルカは、少しだけ体を近づけた。
「でもさ」
小さな声。
「止まってたミレイがいなかったら、
今のミレイも、いないよね」
ミレイは、息を止めた。
簡単な言葉が、
胸の奥に、深く刺さる。
「置いていかないで、
一緒に持ってけばいい」
ルカは、そう言って、
自分の胸を指さした。
ミレイは、ゆっくり息を吐いた。
「……そうだね」
焚き火の炎が、穏やかになる。
星は、変わらず瞬いている。
時間は、
切り捨てるものじゃない。
重ねていくものだ。
ミレイは、空を見上げた。
怖さは、消えなかった。
でも、抱えられる大きさになっていた。
夜は、静かに更けていく。




