第1章 雪が鳴る町
その町では、冬になると雪が鳴った。
ただ降るのではない。空から落ちてくる白い結晶たちは、互いに触れ合うたび、かすかな音を立てるのだ。
キラキラ。
キラキラ。
鈴にも似ていて、硝子がこすれ合う音にも似ている。耳を澄まさなければ聞こえないほど小さいのに、なぜか心の奥まで届く音だった。
町の人々は、その音が聞こえ始めると、冬支度を終えた合図にした。
パン屋は店先の窓を二重にし、仕立て屋は厚手のコートを並べ、子どもたちは初雪の日を指折り数えた。
「今年も鳴ってるね」
「ええ、とてもきれいな音」
そんな言葉が、白い息と一緒に町に溶けていく。
石畳の道、尖塔のある古い時計台、煙を上げる家々。
夕暮れになると、町全体が雪の反射で淡く光り、まるで星空が地上に降りてきたかのようだった。
けれど、その光を見上げない少女がひとりいた。
町はずれの小さな家。
窓辺に立つミレイは、雪の音が聞こえても、ただ静かにシャッターを閉めた。
キラキラ。
外では、今年最初の冬が、確かに鳴いている。
ミレイはその音を、もう三年、まともに聞いていなかった。
彼女にとって雪は、きらめくものではない。
冷たく、白く、すべてを覆い隠してしまうものだった。
部屋の中には、時計がいくつも並んでいる。
壁掛け時計、置き時計、懐中時計。
それらは規則正しく時を刻み、ちくたく、ちくたく、と小さな音を重ねていた。
正確で、まじめで、少しだけ寂しい音。
ミレイは作業台に腰掛け、壊れた時計の裏蓋を外す。
指先は慣れていて、迷いがない。
「……冬、か」
独り言は、すぐに空気に消えた。
雪の音よりも小さく、誰にも届かない声だった。
その夜、町はいつもより強く輝いていた。
まるで、何かが始まることを知っているかのように。
キラキラ、キラキラ。
雪は、確かに鳴っていた。
ミレイは、自分がいつから笑わなくなったのかを、正確には覚えていなかった。
気づいたときには、もう笑顔は必要のないものになっていた。
悲しいから笑わないのではない。
ただ、笑う理由が、どこにも見当たらなくなっただけだった。
朝、町の鐘が鳴ると、ミレイは起きる。
窓を開け、空を見て、天気を確かめる。
雪なら、いつもより早くストーブに火を入れる。
その動作は正確で、無駄がなかった。
まるで、ひとつの時計のように。
ミレイの家は、時計修理屋だった。
看板は古く、文字はかすれているが、町の人々は皆、その場所を知っていた。
「直りますか?」
そう尋ねる声に、ミレイは顔を上げる。
「……見てみます」
それ以上の言葉は、いらなかった。
彼女が扱うのは、時間だ。
急かすものでも、慰めるものでもない。
作業台に置かれた時計は、止まっていた。
針は中途半端な位置で固まり、まるで、行き先を失ったようだった。
ミレイは、ゆっくりと裏蓋を外す。
中の歯車は、少しだけ錆びている。
「大丈夫」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
工具を取り、歯車を磨く。
小さな部品ひとつひとつに、息を吹きかける。
不思議なことに、時計は彼女の手の中では、素直だった。
まるで、「直してもらえる」と知っているかのように。
カチリ。
針が動き出す音。
「おお……」
客は、思わず声を漏らす。
「ありがとうございます」
「……いえ」
礼を言われても、ミレイの表情は変わらない。
微笑みも、誇らしさも、そこにはなかった。
扉が閉まり、店内に静けさが戻る。
ちくたく。
ちくたく。
無数の時計が、同じリズムで時を刻む。
ミレイは、その音に耳を澄ませた。
正確で、乱れのない時間。
けれど、その中に、彼女自身の音はなかった。
ふと、窓の外を見る。
雪が降っている。
キラキラ、と音がした気がして、ミレイは一瞬だけ耳を澄ませる。
けれど、すぐに視線を戻した。
――聞こえないふりをするのは、もう慣れている。
机の引き出しの奥には、古い懐中時計がひとつある。
決して動かない、直せない時計。
ミレイは、それには触れなかった。
笑わない少女の時間は、今日も静かに進んでいく。
進んでいるはずなのに、どこにも向かっていないまま。




