EP 9
謎の美女客と、故郷の味
ゴルド商会の襲撃から一夜明けた夜。
『ビストロ・アオタ』は、奇妙なほど静かだった。
昨夜の「雷の魔獣」と「見えざる矢」の噂が広まったせいか、あるいは嵐の前の静けさか。
ディナータイムだというのに、客足はまばらだ。
ルナとキャルルは、昨夜の興奮と夜更かしが祟ったのか、店の隅のテーブルで突っ伏して寝息を立てている。
「……平和だな」
青田優也は、カウンターの中でグラスを磨きながら独りごちた。
経営者としては売上が欲しいところだが、料理人としては、たまには静かに仕込みに集中する時間も悪くない。
カラン、コロン。
ドアベルが軽やかな音を立てた。
優也は条件反射で顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、一人の女性だった。
年齢不詳。二十代半ばにも、三十代の色香ある女性にも見える。
シンプルなローブを纏っているが、その生地が最上級の「天蚕糸」であることは、優也の鑑定眼をもってすれば一目瞭然だった。
そして何より、その美貌。
店内の照明を吸い込むような、神秘的な輝きを帯びた瞳。
(……貴族か? いや、もっと上の雰囲気があるな)
だが、その表情には隠しきれない「疲労」が滲んでいた。
彼女は重たげな溜め息をつきながら、カウンターの端の席に腰を下ろした。
「……いらっしゃいませ。お食事でしょうか?」
「ええ。……いえ、まずは『お酒』を頂戴。喉が渇いて死にそうなの」
「かしこまりました。どのようなものを?」
女性は肘をつき、気だるげに言った。
「キンキンに冷えたやつ。苦くて、喉越しが良くて、一日の嫌な仕事(管理業務)を全部洗い流してくれるような……そんな魔法の薬みたいなのがいいわ」
優也は口元をわずかに緩めた。
その注文、三つ星レストランではあまり聞かないが、日本のサラリーマンにとっては「聖句」のような注文だ。
「承知しました。……とっておきがございます」
優也はカウンターの下で電子ボードを操作した。
冷蔵庫から取り出したのは、薄氷が張る寸前まで冷やした薄いガラスのタンブラー。
そして、銀色に輝く350ml缶――『日本製ラガービール』。
プシュッ!
静かな店内に、炭酸ガスが弾ける小気味よい音が響いた。
女性がピクリと肩を震わせる。
優也は手際よくグラスに注ぐ。黄金色の液体と、クリーミーな泡が七対三の黄金比を描く。
「どうぞ。地球……私の故郷の『エール』です」
女性はグラスを手に取った。
その冷たさに驚き、そして一気に煽る。
ゴク、ゴク、ゴク……プハァッ!
「……ッ! 美味しい……!」
彼女の瞳から、疲労の色が一瞬で消え去った。
キレのある苦味。爽快な喉越し。そして鼻に抜ける麦の香り。
常温のエールしか存在しないこの世界において、この温度管理されたラガービールは、まさに神の飲み物だ。
「生き返るわ……。あぁ、本当に……」
「お口に合ったようで。こちらは『お通し(アミューズ)』です」
優也が小皿で出したのは、三日月型のオレンジ色のあられと、ピーナッツ。
――『柿の種』だ。
通販で業務用パックを仕入れたものである。
女性はそれを一粒摘み、口に入れた。
カリッ。
醤油の香ばしさと、ピリッとした唐辛子の辛味。
「……!」
その瞬間、彼女の動きが止まった。
彼女は、じっとその柿の種を見つめ、震える声で呟いた。
「これ……『カキノタネ』よね?」
「おや、ご存知でしたか」
「知ってるも何も……私が昔、あっちの世界に行った時に……」
彼女はハッとして口をつぐんだ。そして、どこか懐かしむような、慈愛に満ちた目で優也を見た。
「貴方、転移者ね? それも、かなり面白いスキルを持った」
「……料理人には、独自の仕入れルートがあるものです。詮索は無粋ですよ、お客様」
「ふふ、そうね。無粋だったわ。……なら、料理人さん。このお酒に合う、最高に美味しい肴を作ってくれる?」
試すような視線。
優也は、職人としての闘志に火がついたのを感じた。
ビールと柿の種だけではない。自分の「技術」で、この謎の美女を唸らせなければならない。
「かしこまりました。……少し、煙の演出が入りますが」
優也が取り出したのは、鶏肉のような魔物『コカトリス』の腿肉だ。
中にレバーペーストとピスタチオを詰め、円筒状に巻いて低温調理してある『バロティーヌ』。
これを切り分け、皿に盛る。
そして、ガラスのドーム(覆い)を被せた。
ここからが魔法――ではなく、科学の出番だ。
『ネット通販』で購入した『ポータブル燻製器』。
チューブをドームの中に差し込み、桜のチップに火をつけてスイッチを入れる。
瞬く間にドーム内が白い煙で満たされた。
「……手品?」
「香り付けです。3、2、1……」
優也はドームを外した。
ふわぁっ、と広がる白煙と共に、桜チップの上品で芳しい燻製の香りが爆発的に広がる。
「『コカトリスのバロティーヌ ~瞬間燻製と粒マスタードのソース~』です」
女性は目を輝かせ、フォークを伸ばした。
燻製の香りを纏ったしっとりとした肉。濃厚なレバーのコク。ピスタチオの食感。
そして、通販の「粒マスタード」の酸味が全体を引き締める。
「……んんっ! 卑怯ね、これは」
彼女は頬を染め、ビールを追いかけるように飲んだ。
「燻製の香りが、この苦いお酒と合いすぎるわ。……ああ、もう。三つの勢力のバランスとか、封印の綻びとか、どうでもよくなってきちゃった」
「お仕事、大変そうですね。中間管理職ですか?」
「ええ、まあね。部下は働かないし、上司(自分)は私だけだし……本当に、誰も手伝ってくれないんだから」
愚痴りながらも、彼女の箸は止まらない。
優也は、彼女のグラスが空になる絶妙なタイミングで、二本目の缶を開けた。
「サービスです。愚痴なら聞きますよ。カウンター越しでよければ」
「……貴方、いい男ね。名前は?」
「青田優也です」
「ユーヤね。覚えておくわ。私は……ルチアナよ」
ルチアナ。
この世界の創造神と同じ名だ。
だが、優也は「キラキラネームかな?」程度にしか思わず、軽く会釈した。
「ではルチアナ様。……お会計は、しっかり頂きますよ」
「ふふ、もちろんよ。ツケにはしないわ」
ルチアナは満足げに笑い、カウンターに白金貨(100万円相当)を一枚、コトリと置いた。
「お釣りはいらないわ。……また来るから、その『地球の味』、切らさないでね?」
彼女が席を立ち、出口へ向かおうとした時だった。
店の隅で寝ていたルナが、ふあぁ、と欠伸をして目を覚ました。
「んぅ……いい匂い……燻製ですかぁ……?」
ルナは寝ぼけ眼で、帰ろうとする客の背中を見た。
そして、その姿を捉えた瞬間。
エルフとしての本能、いや、世界樹の巫女としての魂が、その「神気」を感知してしまった。
「え……あ、あれ? その後姿……神々しいオーラ……」
ルナの目が点になり、次に皿のように丸くなり、最後に絶叫に変わった。
「る、ルチアナ様ぁぁぁぁぁッ!!??」
「――ッ!」
ルチアナが振り返り、人差し指を口元に当てた。
『シッ』。
たったそれだけの動作で、ルナの声帯が神の権能により強制ミュートされる。
「ふがッ!? んぐぐぐぐ!?」
「(……騒いだら、世界樹ごと枯らすわよ?)」
直接脳内に響く念話に、ルナは白目を剥いてその場に気絶した。
「……どうしました、ルナ?」
「あら、酔っ払って転んだみたいね。介抱してあげて」
ルチアナは悪戯っぽくウィンクすると、夜の闇へと消えていった。
カウンターには、飲み干された空き缶と、白金貨一枚。
そして、気絶した次期女王候補だけが残された。
優也は首を傾げながら、白金貨を手に取った。
「……チップにしては多すぎるな。ま、あのお客様はまた来るだろう」
こうして、世界最強の常連客が誕生した。
だが優也はまだ知らない。
この店の噂を聞きつけた、もう一人の「頂点」――魔王が、既に動き出していることを。




