EP 5
開店!『キッチン・アオタ』の衝撃
その日の正午、街道沿いに奇妙な「事件」が起きた。
風に乗って漂ってきた、暴力的なまでの『香り』だ。
複数のスパイスが複雑に絡み合った刺激臭。
肉と野菜を極限まで煮詰めた濃厚な旨味の香り。
そして、焦がした小麦粉とバターの芳ばしさ。
旅の冒険者たちは足を止め、行商人たちは鼻をひくつかせ、全員がゾンビのようにその発生源へと吸い寄せられていった。
行き着いた先は、昨日まで廃屋だったはずの場所。
そこには、真新しい看板が掲げられていた。
『Bistro AOTA』
「……準備完了。オープンだ」
厨房の中で、青田優也はコックコートの襟を正し、静かに告げた。
「は、はいっ! いらっしゃいませぇ!」
給仕係として駆り出されたルナが、緊張で声を裏返しながらドアを開ける。
途端に、腹を空かせた冒険者たちの第一陣が雪崩れ込んできた。
「おい! なんだこの匂いは!」
「飯屋か!? とにかく一番美味いものをくれ!」
鉄の鎧を着た大柄な戦士や、杖を持った魔術師たち。
彼らは席に着くや否や、カウンターの向こうの優也に叫んだ。
「かしこまりました。当店のランチメニューは一種類のみです」
優也は冷静に、氷を浮かべた水をグラスに注ぎ、客の前に置いた。
『ネット通販』で購入した製氷機で作った、角のない透明な氷だ。
「つ、冷たい!?」
「氷魔法か!? 水一杯にこれだけの手間を……!」
この世界で、夏場に氷入りの水が出るのは高級貴族のサロンくらいだ。
その時点で、荒くれ者たちの優也を見る目が変わる。ただの店主ではない、と。
「お待たせしました。『オーク肉の赤ワイン煮込みカレー ~カカオとエスプレッソの隠し味~』です」
優也がカウンターに出したのは、深みのある白い皿。
そこに盛られているのは、艶やかな漆黒に近い褐色のソースと、白く輝く米(ジャポニカ米)。
そして、スプーンで触れるだけで崩れそうなほど巨大な肉塊がゴロゴロと入っている。
「こ、これがオーク肉だと……?」
戦士の男がゴクリと喉を鳴らし、スプーンを口に運んだ。
――刹那。
「ッッッ!!??」
男が目を見開き、ガタッと椅子を鳴らして硬直した。
ファーストインパクトは、殴られたような旨味の塊。
通販で購入した「フォンドボー(仔牛の出汁)」と「ブイヨン」をベースに、オーク肉の強い野性味を赤ワインで完全に飼い慣らしている。
次に押し寄せるのは、クミン、コリアンダー、カルダモンなどのスパイスの波状攻撃。
そして最後に、鼻腔を抜けるビターな香りとコク。
隠し味に入れた「カカオ99%チョコレート」と「濃縮エスプレッソ」が、ただの煮込み料理を、芸術的な奥行きのある味へと昇華させていた。
「う、美味い……!! なんだこれは、俺の知ってる煮込みと違う!」
「肉が……溶けたぞ!? あのゴムスカのようなオーク肉が、なんでこんなに柔らかいんだ!」
「辛い! でも止まらん! スプーンが勝手に動く!」
店内は一瞬にして、咀嚼音と感嘆の声、そして食器がぶつかる音だけに支配された。
優也は厨房で、その様子を冷静に観察していた。
(反応は上々。オーク肉は筋繊維が太いが、圧力鍋(通販)で下処理すれば牛バラ肉以上の食感になる。原価はほぼゼロ。粗利率は80%を超えているな)
帳簿上の数字を脳内で弾きながら、優也はコーヒーサイフォンの火を調節する。
食後のコーヒーの香りが漂い始めると、さらに客の回転が加速した。
だが、店が繁盛すれば、招かれざる客も現れる。
「おい姉ちゃん! 酒だ酒! こんな美味いもん食って、酒がねぇとは言わせねぇぞ!」
顔を赤くした傭兵風の男が、ルナの手を掴んで絡み始めた。
ルナがおろおろと涙目になる。
「ひぃっ、あ、あの、当店はお酒はディナータイムからでぇ……」
「あぁん? 堅いこと言ってんじゃねぇよ! ほら、俺の酌をすればチップくらい弾んでやるよ」
男が下卑た笑みを浮かべ、ルナの腰に手を回そうとした瞬間。
「――お客様」
底冷えするような声と共に、優也がカウンターから声をかけた。
しかし、それより速く。
白い影が、厨房の奥から飛び出した。
「ウチの店で、暴れないでくださいますかー?☆」
鈴を転がすような可愛い声。
次の瞬間、傭兵の視界が反転した。
ドゴォォォンッ!!
凄まじい衝撃音が響き、傭兵の巨体が店の扉を突き破って外の街道まで吹っ飛んでいった。
砂煙の中に着地したのは、チャイナドレスのスリットから眩しい太ももを晒し、両手にトンファーを構えたキャルルだ。
「あ、扉壊しちゃった。テヘッ☆」
「……後で修理費(ネギオの残業代)を給料から引いておくぞ、キャルル」
優也はため息をつきつつ、凍りついた店内の客たちに向かって微笑んだ。
「お騒がせしました。当店は『美味しく、静かに』食事を楽しんでいただく場所です。……マナーを守れないお客様は、今のように『退店(出荷)』させていただきますので、ご了承ください」
にっこりと笑う三つ星シェフ。
その背後で、植物の触手を蠢かせる執事が、壊れた扉を一瞬で修復していく。
そして外では、最強クラスの傭兵が、小柄な少女の一撃で泡を吹いて気絶している。
(((……この店、ヤバい)))
その場にいた客全員が、カレーのスパイシーな汗とは別の、冷や汗を流しながら心に誓った。
『絶対に代金は払おう。そして、二度と逆らわないようにしよう』と。
こうして、『ビストロ・アオタ』の初日は、売上・評判・武力誇示の全てにおいて、大成功を収めて幕を閉じた。
だが、この異常なまでの繁盛が、地域の経済を牛耳る巨大な怪物の目を覚まさせることになるのを、優也はまだ知らない。




