EP 2
最初の取引と、腹ペコの月兎
異世界の荒野に、夜の帳が下りようとしていた。
気温が急速に下がり始める中、青田優也の目の前には、場違いなほど真新しい段ボール箱が鎮座していた。
「配送完了。Amazonプライムも真っ青のスピードだな」
優也はカッターナイフで箱を開封した。
中に入っているのは、先ほどの銀貨5枚――日本円にして5,000円分の軍資金で購入した物資だ。
ソロキャンプ用の軽量テント(2,800円)。
カセットガスボンベと小型バーナー(1,500円)。
ミネラルウォーター2リットル(100円)。
そして、残りの予算を投じて購入した『食材』たちだ。
「まずは拠点の設営だ」
優也は手際よくテントを組み立てた。
この世界には魔物がいるらしいが、バイクのエンジン音や光で刺激しなければ、そう簡単には襲われないだろうという計算がある。だが、無防備で寝るわけにはいかない。
夜番が必要だ。あるいは、結界のような魔道具が。
「……まあ、今は腹ごしらえが先か」
優也はバーナーに火を点け、コッヘル(携帯鍋)を乗せた。
取り出したのは、千葉県産のブランド野菜『雪下人参』。
冬の間、雪の下で寝かせることで糖度を極限まで高めた、フルーツのような人参だ。さらに、北海道産のバターと、少量のグラニュー糖。
三つ星レストランの副料理長にとって、野外料理(キャンプ飯)など児戯に等しい。
皮を剥いた人参を乱切りにし、少量の水とバター、砂糖で煮込んでいく。
フランス料理の付け合わせの定番、『人参のグラッセ』だ。
コトコトという音と共に、バターの濃厚な香りと、野菜の甘い蒸気が夜の荒野に漂い始める。
その時だった。
『――グゥゥゥゥ~~~~……』
地鳴りのような音が響いた。
魔物の咆哮ではない。明らかに、空腹を訴える腹の虫の音だ。
優也は鍋を掻き混ぜる手を止めず、視線だけを茂みの方へ向けた。
「……お客様ですか?」
ガサリ、と茂みが割れる。
現れたのは、魔物ではなかった。
月明かりを浴びて輝く白銀の髪。頭頂部から伸びた、長くふわりとした白い耳。
ボロボロに汚れてはいるが、仕立ての良いチャイナドレス風の衣装。そして、健康的な太もも。
兎の獣人――キャルルだった。
「うぅ……い、いい匂い……」
彼女はフラフラと、まるで幽霊のように鍋に吸い寄せられてくる。
その瞳は焦点が定まっていないが、鼻だけはヒクヒクと正確にバターの香りを追っていた。
「ストップ」
優也が静かに声をかけると、キャルルはビクリと肩を震わせて止まった。
「あ……ご、ごめんなさい。私、お腹が空いてて……その、つい」
「泥棒をするつもりはない、という顔ですね」
「う、うん! 私は誇り高き月兎族の戦士……盗みなんてしないよ! でも……」
『グゥゥゥゥ~~~!』
彼女の腹が、言葉の代わりに悲痛な叫びを上げた。
優也はため息をつく。
観察眼で見る限り、彼女は極限状態だ。脱水症状と低血糖。このまま放置すれば、夜明けを待たずに倒れるだろう。
ここで恩を売るか?
いや、これは『投資』だ。
この危険な荒野で、戦えそうな亜人を味方につけるコストと考えれば、人参一本など安いものだ。
「座りなさい。ちょうど出来上がったところです」
「え……? いいの?」
「料理人は、腹を空かせた人間……いや、客を拒みませんよ」
優也はコッヘルから、艶々に輝くオレンジ色の塊をシェラカップに取り分けた。
湯気と共に、甘美な香りが立ち上る。
「ど、毒とか入ってないよね……?」
「疑うなら食べなくて結構ですが」
「た、食べるっ!」
キャルルはカップを奪い取るように受け取ると、熱々の人参をフォークで刺し、口へと運んだ。
異世界の人参は、基本的に硬く、土臭く、青臭い。あくまで栄養摂取のための飼料に近い存在だ。
彼女もそれを覚悟して、とにかくカロリーを求めて噛みついた。
瞬間。
「んふぅッ!?」
キャルルの目が、ルビーのように丸く見開かれた。
硬いはずの繊維が、歯を立てた瞬間にホロリと崩れる。
口いっぱいに広がるのは、土臭さなど微塵もない、濃厚でクリーミーな甘み。
バターの塩気とコクが、人参本来の甘さを爆発的に引き立てている。
「あ、甘い……!? なにこれ、本当に人参!? 嘘、果物!? いや、果物より甘い!」
彼女の手が止まらない。
二つ、三つと口に放り込む。
咀嚼するたびに、幸せそうな吐息が漏れる。
「美味しい……! こんな美味しい人参、お城でも食べたことないよぉ……!」
「地球……私の故郷の農家が、品種改良を重ねた結晶ですからね。そこら辺の雑草と一緒にされては困ります」
優也は冷静に水を飲みながら解説する。
現代農業の勝利だ。糖度、食感、香り。全てにおいて、この世界の未発達な農業とはレベルが違う。
キャルルは涙目で最後の一欠片を名残惜しそうに舐め、カップに残ったオレンジ色のソースまで飲み干した。
「ぷはぁ……生き返ったぁ……」
彼女の顔に赤みが戻る。
そして、ふと我に返ったように優也を見た。その瞳には、先ほどまでの警戒心はなく、代わりに強烈な崇拝の色が宿っていた。
「ねぇ、貴方……名前は?」
「青田優也だ」
「ユーヤ! 私、キャルルっていうの!」
キャルルは立ち上がると、ビシッと背筋を伸ばし、その場に片膝をついた。騎士の礼だ。
「ユーヤ! お願い、私を雇って!」
「……雇う?」
「私、こう見えても腕には自信があるの! 魔物だって倒せるし、夜番だってできる! だから……」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で訴えかけた。
「だから、毎日あのご飯を食べさせて!! あの人参が食べられるなら、私、なんでもするから!!」
優也は手帳を取り出し、ペンを走らせた。
『支出:人参1本、バター10g』。
対して得られるリターンは、『元近衛騎士クラスの護衛戦力』。
――利益率(ROI)、測定不能。
「……交渉成立ですね、キャルル」
優也が手を差し出すと、キャルルはその手を両手で握りしめ、ブンブンと振った。
その握力だけで、優也の手骨が軋む。
こうして、三つ星シェフの元に、最強にして最安(食費のみ)の用心棒が加わったのだった。




