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特秘公務員 叢 ―むらくも― 雲  作者: 神矢幻太


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1/1

アキハバラ黙示録

「――落ちる」


 誰かが、そう呟いた。

 日曜の午後。歩行者天国となった秋葉原の中央通りは、デジタルとアナログの熱気が飽和した坩堝るつぼのようだった。客引きのメイドの声。最新のゲームソフトを求める行列。行き交う人々の網膜もうまくに直接情報を投影するARグラスのレンズが、午後の陽光を乱反射させている。

 その喧騒のまっただ中で、最初の男は崩れ落ちた。有名PCパーツショップの紙袋を抱えた、どこにでもいる青年だった。まるで糸を切られた人形のように、がくりと膝を折り、アスファルトに突っ伏す。周囲の人間が、ぎょっとして足を止めた。熱中症か、てんかんの発作か。数人が駆け寄ろうとした、その瞬間だった。

 二人目が、崩れた。今度は外国人観光客らしい女性だ。悲鳴もなく、まるで電源を落とされたアンドロイドのように、その場に崩れ落ちる。

 一人、また一人。連鎖するように人々が倒れていく。その数、十数名。彼らの共通点はただ一つ。全員が、最新型のARグラスを装着していること。そして、虚空の一点をにらみつけたまま、ぴくりとも動かないことだった。

 パニックが伝播するのに、五秒もかからなかった。悲鳴が上がり、群衆が波のように割れる。誰かが「テロだ!」と叫んだ。現場は、阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図と化した。

 だが、そのすべてを冷静に観測している視点が、そこにはあった。現場から二百メートル離れた雑居ビルの屋上。フェンスに寄りかかった一人の女が、手にした双眼鏡で惨状を捉えながら、無感情に呟く。

状況開始フェイズ・ワン。対象、計十三名。バイタル、安定。意識レベルのみ、一斉に低下。……つまらない手品ね」

 早乙女さおとめれい。風になびく黒髪を無造作に束ねた彼女の双眸そうぼうは、獲物を狙う猛禽もうきんのように鋭い。彼女の耳に着けられた極小の通信機インカムから、落ち着き払った男の声が響いた。

『手品にしては、悪趣味がすぎるな。れい、現場の確保は警視庁サッチョウに任せろ。お前は速やかに離脱。これより、我々の仕事だ』

了解ラジャー

 玲は短く応えると、双眼鏡を懐にしまい、猫のようなしなやかさで身を翻した。彼女の脳裏には、先ほど見た光景――虚ろな目で虚空を見つめ、口元にわずかな笑みさえ浮かべて倒れていた人々の顔が、焼き付いていた。


 †


 国会議事堂の地下深くに、その場所は存在する。公式な図面には存在しない、旧大戦中に掘られた巨大な空間。そこに、日本のインテリジェンスが最後のとりでとする秘密組織の拠点があった。

 内閣情報調査室 直轄 特務機関、叢雲むらくも

 薄暗い空間に、無数のモニターの光だけが明滅している。その中央に置かれた円卓ラウンドテーブルで、一人の男が優雅な手つきでコーヒーをれていた。細い注ぎ口のポットから、湯が白い粉の上に静かに落ちていく。立ち上る、芳醇ほうじゅんな香り。

「……桐生きりゅうさん。こんな時によく、のんびり豆なんてけますね」

 声の主は、円卓の一角でタブレット端末を睨んでいた、如月きさらぎ桔梗ききょうだ。タイトなスーツに身を包んだ、どこか蠱惑的こわくできな雰囲気を漂わせる美女。しかし、その瞳は怜悧れいりな光を宿している。

「こういう時だからこそ、だ。桔梗ききょう君。焦りは判断を鈍らせる。最高の判断には、最高のコーヒーが不可欠だ」

 桐生 たくみ。〈叢雲〉の指揮官コマンダーである彼は、こともなげにそう言うと、抽出された液体を純白のカップに注いだ。三十代前半の、人好きのする笑みを浮かべた優男やさおとこ。だが、彼がかつて外務省で「魔王メフィスト」と呼ばれた交渉官だったことを知る者は、政府内にも少ない。

「最高のコーヒーより、最高の情報が欲しいところですけど」

 桔梗が肩をすくめた、その時だった。対策室の重厚な扉が開き、風のように玲が飛び込んでくる。

「戻った。で、状況は?」

「おかえり、玲君。まずは、これでも飲みたまえ。グアテマラのアンティグアだ。上質なスモーキーフレーバーが特徴でね」

「そんなものはどうでもいい!」

 玲は桐生が差し出したカップを睨みつけ、円卓に拳を叩きつけた。ガタン、と音を立ててカップが揺れる。

「アキバで人が倒れてるんだ! これはテロだ。あたしたちが動かなくてどうする!」

「だから動いている。物理的に動くことだけが、仕事じゃない」

 桐生は全く動じず、静かにカップを口に運んだ。その落ち着き払った態度が、玲の神経をさらに逆撫さかなでする。

「……へえ。じゃあ、司令官様はここで高みの見物ってわけか」

「玲、やめなさい」

 たしなめたのは桔梗だ。

「桐生さんのやり方は、今に始まったことじゃないでしょう」

「だが……!」

 なおも食い下がろうとする玲の言葉を遮るように、対策室の隅にある隔絶されたブースから、ぼそりとした声がスピーカーを通して響いた。

『……うるさい。思考にノイズが入る』

 八神やがみはじめ。《叢雲》の技術官テクニカルオフィサー。モニターとキーボードに埋もれた彼の聖域サンクチュアリから発せられたその声に、玲はぐっと言葉を呑み込んだ。

『……えたぞ。被害者十三名のARグラスに、昨夜から今朝にかけて、同時にインストールされたアプリがある』

「アプリだと? どんなものだ、はじめ

 桐生の問いに、創は数秒の間を置いて答えた。

『名称は〈ドリームスケープ〉。非合法アンダーグラウンドのアプリストアで配布されている。効果は……まあ、LSDのデジタル版みたいなものだ。視覚と聴覚に特殊な信号を送り込み、極彩色の幻覚を見せる。ただのジャンキー御用達ごようたつアプリだと思っていたが……』

「だが?」

『今回のバージョンは、何かが違う。トリガー信号が入力されると、脳の特定領域をオーバークロックさせ、強制的に意識をシャットダウンさせる機能が……追加されている。新種のサイバー兵器、と言っていい』

 対策室に、緊張が走った。ただの集団昏倒事件ではない。これは、明確な悪意を持って作られた、見えざる凶器によるテロ行為だ。

「創君、そのアプリの出所は?」

『サーバーは海外のものを幾重にも経由している。追跡は困難……いや、不可能じゃないが時間がかかる。それよりも……こっちの方が早い』

 創がキーボードを叩くと、メインモニターに一人の男の顔写真が映し出された。気の弱そうな、冴えない中年男だ。

「誰だ、こいつは」

「被害者の一人、宮下信男。システムエンジニアよ」

 答えたのは桔梗だった。彼女はタブレットの画面を桐生に見せる。

「玲が現場から送ってくれた映像を元に、公安ウチのデータベースで洗ってみたの。彼は数日前から、ネットの掲示板で『すごいアプリを手に入れた』『世界が変わる』なんて書き込みをしていたわ。接触するなら、彼ね。まだ事情聴取も始まっていないはず。病院に乗り込むわ」

「よし、頼んだ。玲君、君は桔梗君の護衛とバックアップを」

「……護衛、ね。あたしは殴り込みの方が得意なんだが」

 不満げに口を尖らせる玲に、桐生は穏やかに、しかし有無を言わさぬ口調で告げた。

「殴り込む相手が、まだわからないだろう? まずは敵の正体を知ることだ。頼んだよ、二人とも」

 桐生の言葉に、玲と桔梗は顔を見合わせ、一つ頷くと、静かに対策室を出ていった。

 残された空間で、桐生は冷めかけたコーヒーを一口すする。

「さて、と……。創君、例のAIに、今回の事件のパターンを分析させてくれ。過去のサイバーテロ事例と照合して、類似ケースを洗い出すんだ」

『……了解。天照アマテラスに接続する』

 創がそう応えると、彼のブースの奥で、淡い光が明滅した。八神創が作り上げた、この国のサイバー防衛の要。防諜AI、天照アマテラス

 桐生はモニターに映し出された秋葉原の惨状を見つめながら、呟いた。

「電子の悪夢、か。……随分と、たちの悪い冗談だ」


 †


 都内の総合病院の一室。宮下信男は、まだ混乱から抜け出せないでいた。

「……気がついたら、ここに。一体、何が……」

「落ち着いてください、宮下さん。我々は、内閣情報調査室の者です。少し、お話を伺っても?」

 穏やかな笑みを浮かべ、桔梗が語りかける。彼女の持つ不思議な説得力に、宮下はこくりと頷いた。その背後で、玲は腕を組み、壁に寄りかかって鋭い視線を宮下に突き刺している。

「あなたが使っていたARアプリ、……〈ドリームスケープ〉、でしたか。それについて、教えていただけますか?」

「あ、ああ……あれは、すごかった。本当に、世界が……キラキラして見えて……。悩みも、不安も、全部消えて……」

 宮下の目は、まだ夢見心地だった。

「どうやって手に入れたんです?」

「ネットの……オフ会で、知り合った人から。コードネームは〈プロメテウス〉。彼は言っていました。『このアプリは、退屈な世界に火を灯す、神の炎だ』って……」

 その時、玲のインカムに創からの通信が入った。

『桔梗、玲、聞こえるか』

「どうした、創」

『今、天照アマテラスが妙なシグナルを検知した。発生源は……お前たちのいる病院だ。何かがおかしい。宮下のARグラスは、今どこにある』

 玲は、ベッドサイドのテーブルに置かれた証拠品袋の中のグラスを指さした。

「ここにあるが」

『まずい! そいつはトラップだ! アプリには、遠隔起動のバックドアが仕掛けられてる! 今すぐ、そいつを破壊しろ!』

 創の切羽詰まった声と同時に、玲は動いていた。テーブルを蹴り飛ばし、証拠品袋ごとARグラスを掴む。そして、桔梗と宮下を背中にかばいながら叫んだ。

「伏せろ!」

 直後、玲の手の中のARグラスが、甲高い音とともに閃光を発した。指向性のマイクロ波パルス。もし装着したまま起動させていれば、脳が電子レンジにかけられたのと同じ状態になっていただろう。

 玲は舌打ちしながら、煙を上げる残骸を床に叩きつけた。

「……チッ。あたしたちごと、口封じするつもりだったってわけか」

 桔梗は、恐怖に震える宮下を見下ろし、冷ややかに言った。

「神の炎、ですって? とんでもない。あれは、あなたを焼き尽くすための業火ごうかよ」


 その頃、〈叢雲〉の対策室では、事態が新たな局面を迎えていた。

『――我々は、〈解放戦線アルカディア〉。腐敗したこの国のシステムに、天罰を下す者なり』

 メインモニターに、不気味な仮面をつけた男の映像が映し出されていた。合成された、無機質な声が響き渡る。

『我々の要求は一つ。現在、府中刑務所に収監されている、我々の同志、思想家ウラジミール・ソロキンを、二十四時間以内に釈放し、国外への退去を認めよ』

 ソロキン。数年前に逮捕された、国際的なテロリストだ。過激な反科学技術思想を掲げ、ヨーロッパで数々の爆弾テロを画策した危険人物。

『要求が容れられぬ場合、明日午後三時、我々は新宿の空に、千の太陽を昇らせるだろう。アキハバラの惨劇は、その序章にすぎぬ』

 一方的な声明は、そこで途切れた。

 桐生は、険しい顔でモニターを睨んでいた。

「……ハッタリ、か、本気か」

『本気だ』

 答えたのは、創だった。

『連中のサイバー兵器は、都市のARインフラに接続された全てのグラスを乗っ取ることが可能だ。新宿のAR広告システムにウイルスを仕込み、それをトリガーにすれば……理論上、半径一キロ以内にいる数万人の人間を、同時に昏睡させることができる』

「……千の太陽、か。洒落しゃれにもならん」

 桐生はカップを置き、初めてその表情から笑みを消した。

「敵は、我々の想像以上に厄介らしい。総力戦だ」


 †


 犯行予告時刻まで、あと三時間。

 〈叢雲〉対策室は、静かな戦場と化していた。

「創君、敵の潜伏場所はまだか」

「ダメだ。奴らの通信、暗号化のレベルが異常に高い。まるで、国家レベルの技術だ。……〈天照〉が、これほど手こずるのは初めてだ」

 創が、焦りの滲む声で答える。キーボードを叩く指の速度が、さらに増していく。

 そこへ、病院から戻った玲と桔梗が合流した。

「桐生! 連中のアジト、見当がついてるなら、あたしが乗り込む!」

 玲が、苛立いらだたしげに桐生に詰め寄った。

「待て、玲君。敵の技術は未知数だ。下手に動けば、返り討ちに遭う」

「じゃあ、指をくわえて見てろってのか! 新宿で、またアキバと同じことが起きるのを!」

「そうは言っていない。だが、君のやり方では、人質の命が危ない」

「人質!?」

「ああ。桔梗君の調べで、宮下をそそのかした〈プロメテウス〉の正体が割れた。元・防衛省技術研究本部の研究員、長谷部という男だ。そして、彼は一年前に、最愛の娘を過激派組織のテロで亡くしている」

 桐生は、モニターに長谷部の顔写真と、愛くるしい少女の写真を並べて表示させた。

「長谷部が開発した技術を、〈アルカディア〉が利用している。長谷部自身は、おそらく、テロリストに協力させられているだけ……下手をすれば、人質になっている可能性すらある」

「……だから、あたしに行かせろって言ってるんだ。人質ごと、テロリストを無力化するのが、あたしの専門分野スペシャルだ」

「力ずくで解決できると思うな!」

 桐生が、珍しく声を荒げた。玲が、ひるむ。

「いいか、玲君。我々の仕事は、ただ敵を倒すことじゃない。法で裁けない悪を、法の外から裁く。だが、そのためには、我々自身が正義の側にいなければならない。……わかるな?」

 玲は、唇を噛み締め、何も言えずにうつむいた。

 その二人の間に、桔梗が割って入る。

「……桐生さん。長谷部の潜伏先なら、心当たりがあるわ」

「何?」

「彼が、亡くなった娘さんと、よく訪れていた場所。奥多摩に、廃墟になった観測所があるの。彼にとっての、聖地サンクチュアリみたいな場所。もし、彼が自らの意思で協力しているにせよ、人質になっているにせよ、そこにいる可能性は高い」

「……よし。桔梗君、よくやった。玲君、君は桔梗君と二人で、その観測所に向かってくれ。ただし、突入はするな。あくまで、内部の状況を探るだけだ」

「……了解」

 不承不応ふしょうぶしょうといったていで、玲が頷く。

 二人が出ていくのを見送ると、桐生は創に向き直った。

「創君。敵の狙いは、新宿のAR広告システムだ。君は、そこに防御壁を張る。絶対に、ウイルスの侵入を許すな」

『……無茶を言う。国家の防衛システムじゃあるまいし』

「君になら、できる。そうだろ?」

 桐生の言葉に、創は何も答えなかった。だが、その沈黙は、肯定を意味していた。

「さて……」

 桐生はジャケットを羽織ると、一人、対策室を出ようとした。

「桐生さん、どこへ?」

 創が、モニター越しに問いかける。

「黒幕にご挨拶さ。……どうも、この芝居、テロリストにしては、脚本も演出も、手が込みすぎている。裏で糸を引いている役者が、別にいるはずだ」

 その瞳の奥に、かつて「魔王」と呼ばれた交渉官の、冷たい光が宿っていた。


 †


 午後二時五十分。新宿駅東口、アルタ前広場。

 巨大な街頭ビジョンには、人気アイドルの笑顔が映し出されている。行き交う人々は、これから起ころうとしている未曾有みぞうのサイバーテロのことなど、知る由もない。

 〈叢雲〉対策室では、創がモニターに食い入るように集中していた。

『……来たぞ。敵の攻撃だ』

 モニターに表示された新宿のARインフラの模式図に、赤い光点が無数に現れる。ウイルスだ。防御壁を突破しようと、洪水のように押し寄せてくる。

『〈天照〉、全リソースを防御に回せ! 第一防衛ライン、死守!』

 創の指が、嵐のようにキーボードの上を舞う。それは、もはやタイピングではなかった。電子の奔流を相手に、たった一人で戦う指揮官のタクトだ。赤い光点と、創が放つ青い防御プログラムが、モニター上で激しく衝突し、火花を散らす。

 一方、奥多摩の廃観測所では、玲と桔梗が潜入に成功していた。

「……いた。長谷部だ」

 双眼鏡を覗いていた玲が、低く言った。ドーム状の観測室の中、一人の男が巨大な機材の前で項垂うなだれている。彼のこめかみには、物々しいヘッドギアが装着されていた。そして、その後ろには、銃を構えた二人の男が立っている。

「テロリストは二人。長谷部は……やはり人質か」

 桔梗が呟く。

「突入する。二人なら、三十秒で無力化できる」

 玲が、腰のホルスターから特殊な形状の拳銃――電磁加速式スタンガン――を引き抜いた。

「待って、玲。何か様子がおかしいわ」

 桔梗が玲を制する。長谷部は、まるで操られているかのように、ふらふらと立ち上がると、コンソールを操作し始めた。

「まさか……! 創!」

 玲がインカムに叫ぶ。

『どうした! こっちは、それどころじゃ……!』

「敵の本体は、そっちじゃない! ここだ! 長谷部が、直接システムにダイブして、内側から防御壁を破ろうとしてる!」

『なんだと!?』

 その瞬間、対策室のモニターで、青い防御壁の一部が、内側から侵食されるように赤く変色した。

「くそっ……!」

 創の呻き声。

 観測所では、テロリストの一人がにやりと笑い、時限爆弾のスイッチに指をかけた。

「……もう遅い。新宿は、我々の聖地となる」

「させるか!」

 玲が動いたのは、その言葉が終わるよりも早かった。窓ガラスを突き破り、観測室に飛び込む。続け様に、閃光弾スタングレネードを床に叩きつけた。

 強烈な光と音に、テロリストたちが怯んだ一瞬の隙。玲は、まず時限爆弾を持った男の腕を撃ち抜く。非殺傷のスタン弾が、男の腕の神経を焼き、爆弾を取り落とさせる。もう一人がアサルトライフルを構えるより早く、その懐に飛び込み、強烈な肘鉄ひじうち鳩尾みぞおちに叩き込んだ。

 床に崩れ落ちるテロリストたち。玲は、長谷部の頭からヘッドギアを荒々しく引き剥がした。

「……やめ……てくれ……。娘が……娘が、呼んでいるんだ……」

 長谷部は、涙ながらにそう訴えた。

 桔梗が、彼の肩にそっと手を置く。

「……お嬢さんは、もういないのよ。あなたが見ていたのは、テロリストが作り出した、偽りの幻……」

 その言葉に、長谷部はわっと泣き崩れた。

 玲は、床に転がった時限爆弾を拾い上げると、インカムに叫んだ。

「創! 本体は止めた! あとは、そっちのザコだけだ!」

『……ザコ、とは、言ってくれるな!』

 創の、どこか楽しげな声が返ってきた。

『――〈天照〉、最終防御シーケンス。敵性プログラム、完全駆除パージ!』

 新宿。午後三時、ジャスト。

 街頭ビジョンに映っていたアイドルの笑顔が、一瞬、ノイズに変わった。行き交う人々のARグラスに、意味不明の文字列が一瞬だけ表示され、そして、消えた。

 ただ、それだけ。

 千の太陽が昇ることはなかった。電子の悪夢は、その寸前で、人知れず掻き消されたのだ。


 †


 同時刻。都心にあるホテルの最上階。スイートルーム。

 一人の男が、窓の外に広がる新宿の街並みを、静かに眺めていた。そこに、桐生が音もなく入ってくる。

「……残念でしたね。あなたの筋書き通りには、ならなかったようです」

 男――東欧の小国、スロヴァキア共和国の駐日大使館員、アンドレイ・ペトロフが、ゆっくりと振り返った。その顔には、余裕の笑みが浮かんでいる。

「……何のことか、わかりかねますな」

「とぼけないでいただきたい。テロリストが使っていた暗号化技術、あなたの国の諜報機関が開発したものと、酷似している。長谷部研究員に接触し、彼の技術をテロリストに流したのも、あなたでしょう?」

「証拠でも?」

「ありません。ですが、確信はあります」

 桐生は、ペトロフの前に立つと、静かに言った。

「あなたの狙いは、ソロキンの釈放などではない。日本国内で大規模なサイバーテロを起こし、この国の危機管理能力の低さを国際社会に露呈させること。そして、自国製の高度なセキュリティシステムを、日本政府に売り込む。違いますか?」

 ペトロフは、初めてその表情を崩した。

「……面白い推理だ。だが、もしそうだとして、君に何ができる?」

「ええ、何も。外交官特権を持つあなたを、我々は逮捕できない」

 桐生は、あっさりとそれを認めた。そして、一枚のメモをテーブルに置く。

「ですが、これはどうでしょう。あなたが、本国の諜報機関の資金を横領し、タックスヘイブンに隠しているという情報です。もちろん、これも証拠はありません。ただの、うわさ話です」

 ペトロフの顔から、血の気が引いた。

「……貴様、いったいどこでそれを……」

「我々は、あなたが思うより、多くのことを見聞きしているのですよ。……この噂、あなたの本国に流れたら、どうなるでしょうな。あなたは、ただの外交官ではいられなくなる」

 沈黙が、部屋を支配する。

 やがて、ペトロフは深いため息をつくと、降参、とでも言うように両手を上げた。

「……わかった。私の負けだ。この件からは、完全に手を引こう」

「賢明なご判断です」

 桐生は、にこりと笑みを浮かべた。その笑顔は、どこまでも人好きのするものだった。

「では、私はこれで。……ああ、そうだ。一つ、忠告しておきます」

 部屋を出ていく間際、桐生は振り返って言った。

「この国には、我々のような『存在しない』公務員がいる。二度と、日本の空で火遊びはしないことです。……火傷やけどじゃ、済みませんよ」


 †


 深夜。〈叢雲〉対策室。

 円卓では、玲がコンビニで買ってきた特大のプリンパフェを、幸せそうに頬張っていた。

「んー、うまい! やっぱ、仕事の後は、これに限るな!」

「……よく、そんな甘いものが食べられるわね」

 呆れたように、桔梗がコーヒーカップを傾ける。

 創は、相変わらず自室ブースに引きこもったままだ。インカムから、小さな呟きが聞こえてくる。

『……今回の敵のアルゴリズム、なかなか面白かった。……少し、参考にさせてもらうか……』

 どうやら、彼は彼で、戦利品にご満悦のようだ。

 桐生は、新しい豆を挽きながら、静かに言った。

「ペトロフは、今朝の便で本国に強制送還されたそうだ。表向きは、一身上の都合、ということになっている」

「……後味の悪い勝ち方だな」

 玲が、スプーンを口にしたまま、不満げに言う。

「あたしたちは、汗水垂らしてテロリストと戦って、あんたは、ホテルの一室で脅迫状を渡しただけ、か」

「結果が全てさ、玲君。それに、言葉のナイフは、時として銃よりも鋭く相手の急所をえぐるものだよ」

 桐生はそう言うと、淹れたてのコーヒーを桔梗の前に置いた。

「……そういえば、桐生さん」

 桔梗が、意味ありげな視線を桐生に向ける。

「あなたが外務省にいた頃に関わった、あのスロヴァキアでの『事件』。……今回の件と、何か関係が?」

 その問いに、桐生の動きが、ほんのわずかに止まった。

 彼はすぐにいつもの笑みを浮かべると、ゆっくりと首を横に振った。

「さあね。ただの偶然じゃないかな」

 その答えが嘘であることは、桔梗にはわかっていた。そして、おそらく桐生自身も、彼女が気づいていることに気づいている。

 秘密を抱えた公務員たち。彼らの戦いは、まだ始まったばかり。

 桐生は、窓の外の暗闇――眠り続ける東京の街を見つめながら、静かにコーヒーを口に運んだ。その味は、勝利の甘さか、それとも、拭いきれない苦さか。

 それは、彼だけが知る答えだった。

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