第三話 変わりゆく日常 (1)
「……ぃ~、秀彰~、いつまで寝てるのよー? パン冷めちゃうから早く下りて来なさーい!」
「……ぁ?」
階下から響く母の呼び声に起こされ、秀彰は重い瞼を開いた。目覚めは最悪で、軽い頭痛と全身を包む気怠さが睡眠過多の時を思わせる。おもむろに布団を剥ごうとしたが、手応えはなく空振りした。使い慣れた枕の感触もない。背中だけがやけに冷えている。
(あぁ、そうか)
未だ巡りの悪い頭をコンコンと小突くと、サボっていた記憶中枢が仕事を思い出したかのように覚醒し、昨晩の一部始終を脳裏に描き出す。
(あの後、親に見つかると面倒だからって、どうにかリビングから自分の部屋まで這って行ったんだっけか。それで――)
ドアノブを回した所までは覚えているが、それ以上の記憶は無い。制服のまま床に転がっている時点で、大体の察しは付く。
(汗、すげぇかいてる。気持ち悪ぃ)
首筋や背中に掛けてべっとりと不快な汗が付着している。これで風邪をひかなかったのは生まれ持った体の丈夫さか、それとも――。
(……馬鹿な事考えてないで、さっさとシャワー浴びるか)
秀彰は寝惚け眼を擦りつつ、殺風景な部屋を抜け出し階段を下りる。そのまま風呂場へ向かおうと狭い廊下を歩いていると、リビングから顔を出した母に呼び止められた。
「どこ行くの? 朝ごはん用意出来てるわよ」
「先にシャワー浴びてくる」
制服姿の息子を見て、母は露骨に顔をしかめる。
「あんた、その格好で寝てたの? だらしないわねぇ」
「疲れが溜まってたんだよ」
「部活にも入ってないくせに何言ってんだか……」
文句を言いつつも「着替え出しておくから」と、スリッパの音を響かせながら廊下を駆けていく。そんな働き者の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、秀彰は風呂場への歩みを再開した。
シャツを脱ぎ、上半身裸になると真っ先に洗面台の鏡で肩口の傷痕を確認する。昨晩の出来事はもしや夢だったのではないか。秀彰の抱いた疑念は、鏡に映った幾何学模様によって払拭された。
(見えづらい位置に刻まれたのは幸いだったな)
服を着ていればちょうど隠れる部位だ。触ると少し痛むが、強く押されなければどうと言う事はない。じきに痛みも消えるだろう。
と、いきなり洗面場の扉が開け放たれた。
「替えのカッターシャツと下着、カゴに掛けておくからね……どうしたの、そんな驚いた顔して?」
「……いや、突然開けるからびっくりしただけだ」
「あ、そう。風邪ひかないうちに入りなさいよ」
突然現れた母はパタパタと忙しない足音を残し、リビングへ戻っていく。足音が聞こえなくなった後も、秀彰は目を見開いたまま、暫し放心状態に陥っていた。
(……心臓に悪ぃ)
咄嗟にタオルで傷口を隠して事なきを得たものの、見つかれば余計な詮索と心配をされかねない。父親不在のこの家で、ただでさえ母には迷惑を掛け続けてきたのだ。これ以上の心労は増やしたくない。
(当分は、隠しておいた方がいいだろうな)
当分という期間がいつを指すのか。もしかすると墓場まで持っていく秘密になるかもしれない。なんとなく不義理のようなモノを感じつつも、今の秀彰には事情を話す気など沸かなかった。
シャワーを浴び終え、新しいカッターシャツに袖を通す。すると、ようやく昨日の夕食を逃した事を思い出したのか、秀彰の腹の虫がぐぅと呻いた。
「腹減った」
「はいはい、もう朝食出来てるわよ」
腹を擦りながら食卓に着くと、淹れたての珈琲を母が注いでくれた。角砂糖とクリープは自分で入れ、スプーンで混ぜる。
ブラック無糖派の母から言わせれば、息子の飲み方は「お子様」らしいが、勧められるまま無理に飲んで、困った犬のような情けない顔を晒すのはもう懲り懲りだ。
その時の証拠写真は、今でも母の携帯電話に残っており、秀彰が何か反抗的な素振りを見せる度、ドヤ顔で突き付けてくる。若かりし頃はイジメっ子だったに違いない。
「バターとジャム、好きな方付けて食べなさい」
「……、いただきます」
トーストの上に苺ジャムを塗って、齧りつく。合間にグリーンサラダとハムエッグを胃に収めながら、普段とは違う豪華な朝食に舌鼓を打った。
パートを掛け持ちしている母は昼夜問わず忙しいため、こうして親子二人が揃って朝食を取る機会は、実は結構珍しいことだったりする。朝食は食パン一枚で済ますことがほとんどで、夕飯はパートの合間に母が作ったものを時間差で食べている。
たまにお互いが休みの日があっても、何故かそういう日に限ってどちらかに用事が出来てしまい、同じ時間を共有することはまず無い。要するに、間が悪い家族なのだ。
「学校はどう? 上手くやってる?」
「停学食らった以外は、順調だよ」
ズズズとマグカップに注がれた珈琲を啜る。何の気なしに答えた言葉が地雷だったと秀彰が悟るのは、数秒後だった。
「へぇぇぇぇ、順調? 順調なの? それは良かったわねぇ」
目を細め、笑顔を作る母のこめかみには、隠す気のない大きな青筋が浮かんでいる。普段はそこまで短気ではないのだが、一度怒りを買うとそれはそれは長々と続く。さながら毒のように。
(やばい、余計な事言うんじゃなかった)
後悔するも、時既に遅し。母は大きな溜め息を一つ吐いた後、睨むような目で息子を見ながら、饒舌に愚痴り始める。
「はぁぁ……全くもぉ、なんだってこの子は問題ばかり起こすのかしらねぇ。高校入学が決まって、赤く染めてた髪もバッチリ黒に戻して、さぁこれで秀彰も真っ当な青春を謳歌するのかぁ、としみじみ思ってた矢先よ! ほんっと、何を考えているのか。親の顔が見てみたいわ」
「いや、親はアンタ――」
「黙らっしゃい!」
ピシャリと発言を遮られ、秀彰は所在なさげに肩身を狭くした。
「ああもう、思い出したらまた腹が立ってきたっ! 入学式の日の事件、あの時の警察の対応も最悪だったわ。なーにが『お子さんの家庭環境にも問題があるんじゃないですかねぇ』よ。厭味ったらしく言い捨てたあの顔。片親だからって、頭ごなしに決め付けるんじゃないってのっ!」
怒りの収まらない様子の母は舌の回りに任せて思いの丈をぶち撒けると、当て付けのように黒ずんだ珈琲をズズズと啜った。こうなると機嫌を直すのは大変だ。
「いや、本当に申し訳ない。反省してる、いや、してます、ハイ」
「どうだか。あんたの事だから、また近いうちに問題起こすんじゃないの?」
テーブルに肘を付き、口端をひん曲げて母は言った。
「ねぇ、『紅の狼』さん?」
「ぐ……ぅぅぅ」
グサリ、と心が抉られる音がした。紅の狼とは中学時代、誰しもが掛かるであろう病の影響で前髪の一部を赤に染めていた秀彰に付けられたアダ名だ。当時は秀彰自身もそこそこカッコイイと密かに感じていたものの、こうして実の親の目の前で呼ばれると羞恥の暴力でもんどり打って床上を転がりたくなる。
どうにか話題を変えようと、秀彰は脇にあったリモコンを操作してテレビを点けた。いつもはまるで興味のない文字と音声の羅列をただ眺めるだけの装置としか思っていないが、この時ばかりは縋るような思いで画面を見つめる。
ちょうどCMが明けたようで、画面には中年の女性キャスターが報道フロアから最新のニュースを読み上げている所だった。
『えー、たった今入ってきたニュースです。本日未明、△△県○○市内にある高校の校舎内で、女性が血塗れで倒れているのを出勤してきた教師が発見しました。女性は病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認され――』
それはなんとも物騒な事件のニュースだった。
口に含んだトーストを珈琲で流しこみながら見ていると、やがて画面は中継映像へと切り替わる。
そこに映しだされた光景は、見覚えのあるなんてレベルではなかった。
(おいおい、こりゃあ……)
飲み終えたマグカップを置くことすら忘れ、秀彰はテレビに見入っていた。風呂上がりだというのに、嫌な汗が首筋を伝って流れる。
『なお、発見した教師の話によりますと、亡くなったのはこの学校に勤務する――』
「ね、ねぇ、秀彰! ここってまさか……あんたの学校……じゃないわよね……?」
たまらず声を上げたのは、母の方だった。
「あぁ、間違いない」
「はぁ……やっぱり……」
秀彰は最低限の言葉だけ返し、頷いてみせる。
画面に映っていたのは、秀彰が今年から通い始めた高校だ。校門の両脇に植えられた桜の木と遠く映る木造旧校舎の配置が、記憶の中の光景と完全に一致する。赤坂家の食卓に不穏な空気が流れ始めた。
――トゥルルルル。
緊迫した空気を打ち破ったのは、固定電話のコール音だった。けたたましく鳴り響く音に一瞬驚くも、母が慌てて電話台へと駆け寄る。
「はい、赤坂です。あ、美月先生ですか。いつも息子がお世話になっております。 事件……えぇ! 今ちょうどテレビで見てました。もうビックリして……休校、ですか。指示があるまで自宅待機と……分かりました。いえいえとんでもない! 先生方も色々と大変でしょう。息子にもそう伝えます…………へ、取材対策? あぁ、大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても、うちの子は――」
「………」
担任からと思しき電話応対を聞き流しながら、秀彰は天気予報に切り替わったテレビ画面を無言で睨んでいた。
(これも痕印者の仕業ってワケじゃないよな?)
身の回りで立ち続けにおかしな現象ばかり起こっているせいで、一種の認知バイアスが掛かっているのを自覚しながらも、そう疑わざるを得ない。
入学式の日。式典を終えて友人の土方信吾とファーストフード店に行った時のことだ。他校の不良に絡まれた信吾を助けようと喧嘩騒ぎを起こした際、その不可思議な現象は突然起こった。
(あのパーカーを着た自称『痕印者』の男が暴れ始めた時、俺の周りには大勢の人が居た。そいつらの一部は確かに目撃したはずだ。手も触れずに周囲の物体を切り裂く異能者の姿を)
だが、その後ニュースや新聞で流れた情報の中にそいつの情報は一切無かった。あるのはただ血気盛んな高校生共が殴り合いの喧嘩をしたという内容だけ。秀彰も目撃した真実をそのまま警察や取材記者にも伝えたが、それがメディアの媒体に載ることはなく、結果として闇へと消し去られた。
秀彰だけではない。他の目撃者も同じようにしたはずだ。一人二人の目撃談なら単なる与太話で済まされそうだが、数が集まればマスメディアだって無視出来ないネタになるだろうに。
(報道できない理由が別にあるのか? 例えば、どこかの組織から報道規制が掛かっていたりとかして……)
と、そこまで考えたところで秀彰は頭を振り、思考を雲散させる。
これでは陰謀論者と変わらない。裏の取り得ない推察など、時間の無駄だと結論付ける。
(今、俺がすべきは何だ?)
自分自身に言い聞かせるかのように、自問自答してみる。
答えは容易く出てきた。
(痕印者という存在、能力への理解――これだ)
自分に足りないのは痕印者という存在への理解だ。でなければ生身の人間と何も変わらない。宝の持ち腐れというヤツだ。
(このタイミングで休校になるってのも、俺の運がまだまだ捨てたモンじゃないって証拠だな)
未だ電話を続けている母を横目に、秀彰は忍び足で自室へ戻る。そして手早く私服に着替えると、そのまま玄関先へと向かった。
「あっ、すみませんっ、ちょっとだけお待ち頂けますか」
再び階段を降りたところで、当然のごとく母の目に留まり、呼び止められてしまう。
「秀彰っ、あんた着替えてどこに行こうとしてるのっ!? まさか学校に行くんじゃないでしょうね!」
「いいや、ちょっと近所の公園まで散歩に行くだけだって」
靴を履き替え、玄関の敷居を跨ぎながら秀彰が答える。どう考えたって信ぴょう性のない理由だが、そこは長年連れ添った肉親。止めても無駄だと悟ったのだろう。
母は呆れた顔で息子を睨みつつも、すぐに呆れたような溜息を吐いて、放免した。
「あんたって子は……ま、いいわ。人様の迷惑になることだけはするんじゃないのよ。あと、先生達には絶対見つからないこと、いいわね?」
「分かってるよ、母さん」
トントンと靴の先を玄関床で叩きながら、秀彰は軽やかな足取りで自宅を後にした。向かう先は団地裏の寂れた公園。通称『廃墟公園』だ――。