第九話 焔心の魔女 (2)
辺りはすっかり宵闇に染まりつつある頃。木々の隙間から差し込む夕陽は血のように赤く、それはまるでこれから起こる最悪の結末を暗示しているかの如き、不穏な情景をしていた。
秀彰はよろよろと起き上がると、岩盤のような図体をした怪物に睨みを利かせた。古くはユダヤ教の伝承に登場し、数々の神話や伝説にも名を残す泥人形。まるでゲームかアニメの世界から抜け出したとでも言うべき空想の産物が、現実で、目の前で、猛威を奮っている。
(どうみても会話が成立するような相手じゃなさそうだな)
巨身から繰り出されたタックルに飲まれ、木っ端微塵に砕け散った大木を視界の隅で認識しつつ、秀彰は乾いた喉をグビリと鳴らした。たかだか一人の人間を殺すにはあまりに過大すぎる殺意と暴力。それがあの老人の命令に従ってなのか、それとも元の人間に備わっていた自意識によるものなのかは分からない。が、それを知った所で状況が有利になるワケでもあるまい。今彼がやるべきコトはただ一つ、ひたすら全力で抗って己の命運を繋げるだけだ。
(あのジジイの望んだ通りになるってのは気に食わねえが、仕方ねぇ)
秀彰はフラつく下半身に無言で活を入れ直し、未知なる厄災が待つ正面へと向き直る。無理な受け身を取った反動で、手の平には未だ痺れが残っているが、不安要素はそれだけだ。秀彰は右手を突き出し、再び痕印の元へと意識を集中させた。すぐに『通電』が始まり、周囲にばら撒かれた砂礫の一つ一つが手に取るように感応し出す。すると化物もこちらの戦意に反応してか、角ばった頭をグルリと半回転させた。不気味に淀んだ巨眼が獲物を見つけて引き絞られる。
「――ッッ!!」
それに魅入られた刹那、畏怖から来る悪寒が秀彰の首裏から脊髄までを一気に直走った。喉奥をゴム栓で蓋をされたような圧迫感がひしめき、呼吸が一時的に困難になる。
(睨まれているだけで発狂しそうだ……クソッ!)
額から鼻筋に伝う汗を視界の隅で見送りつつ、秀彰は覚悟を決めた。一度は肌身で体感している以上、この後の動きは予想可能だ。再びあの巨躯が迫り来る前に、秀彰は全身全霊を籠めて痕印能力を発現させる。
「ッッ、ワイナルトぉぉッッ!!!」
生への執着心を原動力に発した必死の叫声に応じて、秀彰の周囲の地面に亀裂が走る。メキメキと破砕音を響かせながら、大地の一部が空中に浮かび上がった。直径一メートルほどの巨大な岩石だ。痕印能力の特性上、対象物の重みや範囲に比例して負荷も増える為、持ち上げるだけでも相当な精神力を消費する。言うなればこの岩石は彼が使役できる触媒の中で最大級の武器だった。
「くぐッ……う、うおおおおおおおッッ!!」
だが、怪物はそれを嘲笑うかのように、ゴツゴツとした右腕を振り上げながら秀彰の元へと疾走してくる。まさに彼が浮かび上がらせている巨岩と同等の重量感を漂わせていながら、その動きは理不尽なまでに素早い。一歩、一歩と近付いてくる度に地表の岩盤が割れ、死の予兆を振り撒いていく。数日前の秀彰なら、極上のスリルとして喜んで受け入れていただろう。
「ッッ、穿けぇぇぇぇッッ!!!」
こめかみ付近に流れる静脈が怒張するのを感じ取りながら、それをブチ切る勢いで思念を飛ばした。肩口から溢れ出た痕印の残滓が、浮き上がった岩石の周りに渦を巻く。やがて蒼色の光に導かれるように、浮遊させた岩石が螺旋の軌道を描きながら、疾走する化物の胸元へと襲来した。
「……グゥゥゥォォォオオッッ!!!?」
着弾、命中。そして、鼓膜を破らんばかりに響き渡る、強烈な爆砕音。
痕印の力を得て急加速した岩石は巨大な砲弾と化し、化け物の巨躯へと着弾した。たかが岩石の砲弾であればさしたるダメージも無いだろう。しかし、秀彰にはこの怪物には痕印の力で抗うべきだという謎めいた確信があった。
事実、ありったけの痕印の力を込めた岩をブチ当てられ、怪物の体が一歩後退した。それだけでなく、着弾した部位の岩盤がごっそりと剥がれ落ち、パラパラと砂礫がこぼれ落ちる。決まった。充分すぎるほど手応えはあった。
(いける、このまま押し切れる……!!)
秀彰の脳裏に一縷の望みが浮かぶ。絶望的な状況で狙い通りの戦果を上げられた。思わず拳を握りしめ、小さくガッツポーズを決める。だが、そんな彼の甘い考えは瞬きをする間もなく、覆される。
「……、…、…ッッ!!!?」
第六感が告げた危機信号を察知するより早く、秀彰の身体は宙に浮いていた。痛みはなく、衝撃も曖昧だったが、逆にそれが致命的な一撃を食らったということを彼はすぐに知ることとなる。
「が……、ふっ……っっ……!!?」
肺が擦り潰されるが如く急激に狭窄し、体内に溜め込んでいた酸素を強引に吐き出させる。その際、肋骨かどこかの骨が折れて食い込んだらしく、鮮血までも口から伴って出さざるを得なかった。
ゴツゴツと不格好に盛り上がった土と石で出来た剛拳での一撃。それを食らったのだと秀彰が理解したのは、未だ彼の身体が宙と地の間をバウンドしている最中だった。混濁する視界と意識の狭間で思い出したかのように痛覚が戻る。いや、いっそそのまま持って去ってもらいたかった。そう恨み言を胸中で漏らしたくなるほど、激烈な痛みが秀彰の身体に襲いかかる。
「ぶふぁ……っっ!!!?」
荒れた地面の上を鞠のように数度弾んだ後、ようやく秀彰の身体は大人しさを取り戻した。生きているのが信じられないと自分でも思うくらいに、全身ボロボロだ。
(これが……俺の力なのか。どんだけ粋がっても、所詮俺は……この程度、なのかよ……ッッ)
血反吐に頬を汚しながら、秀彰は直撃を受けた部位を探ろうとして、ふと気付いた。ジャージに付着している土がやけに多い。どうやら無意識の内に痕印の力でガードしていたらしい。そうでもしなければ、今頃はあの巨体の拳を喰らって四肢がバラバラに弾け飛んでいたかもしれない。肋骨は間違いなく折れている。吐血もした。呼吸も乱れている。だが、こちらとてその前に全力の一撃を見舞っているのだ。形勢逆転の可能性は、まだ残っているはずだ。
秀彰はゾンビのように地面を這い蹲りながら、せめて先程の反撃が化物に致命傷を与えたのではと、希望的観測を持って視線を上げた。その先には――。
「……な、んだよ……それ」
宵闇に浮かぶ岩石の怪物が、不気味なほど勇壮にそびえ立っていた。ゴツゴツとしたボディの中央は大きく抉れてはいるものの手足に欠損部位はなく、戦闘続行になんら影響はないようだ。
不意に秀彰は思い出す。痕印者となって、退屈な日常を打破したいと願っていた頃のことを。未だ知らぬ強敵との戦いに明け暮れている自分の姿を、常に脳裏に描いてきた。死線だって何度も潜り抜けてきたし、たとえ相手が銃を持っていたとしても負ける気はしないと自負している。もはや普通の人間では相手にならない、自分は超人的な力を得た選ばれし人間なのだと、なのに――。
なんだ、コレは?
なんだ、コイツは?
(こんな、化物……どうやって戦えって言うんだよ……ッッ!?)
戦意は潰え、矜持も廃れ、後に残るは絶望に歪んだ弱者の顔だけ。日常を嗤い、故に普通であるということを退屈だと無意識に罵ってきた、世間ズレしたただの一般男子学生が、そこに居た。痕印者との戦いで敗れるのなら多少諦めもつくだろう。不完全な自立の末、彼に待ち受けていた現実は化け物に縊り殺される哀れな役だった。
(クソッッ!! こんなの、認めねぇ!!)
唯一動かせる口を使い、再度痕印の力を発動させる。悪あがきと知ってなお、あがく。否、それはきっと恐怖からの逃避行動でしかない。
「ワイ、ナ――!!」
命じるままに周囲から収集された砂と土、大小の石が、倒れ伏した秀彰の前に壁となって形成される。だが、強固な意思も集中力も不十分な状態では、化物の強撃を受け止められるはずもない。
バガン、と大気を震わせる破砕音を奏でながら砂礫の障壁はあっけなく崩落し、残る勢いで秀彰の足をも容易く圧し折った。
「ぐぶッッ!!? が、がぁぁぁぁっっ!!!」
不自然な角度に曲がった力の入らない足では、攻めることも守ることも、ましてや逃げることすらも出来ず、千切れ飛ばなかっただけ幸いだと思うしか無かった。完全に対抗策を失ったことで、それまで無視してきた死への恐怖が影のように秀彰の脳裏へとにじり寄って来る。
(……俺は、こんな所で、死ぬのか……?)
これまでも命の危機に晒される場面は何度もあった。ファストフード店での痕印者との邂逅から始まり、瀬能や鈴峰に殺されかけていても、一歩二歩先の手は常に考えてきた。しかし、それでもこの状況は悪夢としか言えない。人ならざるモノに命乞いなど無意味だろうし、何より――。
(あんな…情けない捨て台詞を吐いておいてこのザマかよ…ハハ…)
売り言葉に買い言葉とはいえ、世話になった恩師に向かって吐き出した決別の言葉。今思えば、なんと馬鹿げた事をしたのだと後悔の念が湧いてくる。
非情な現実から目を背けても、時間は止まらない。脆弱な人間の足に下ろされた化物の腕が持ち上がり、今度はさらに大きく振りかぶられた。人を殺すには余り過ぎる力。秀彰が出来るせめてもの反撃は、最期の瞬間まで目を見開く事だった。
「ウォアァァァァアアア!!!!!」
より一層大きな化物の雄叫びが、眠れる木々と秀彰の鼓膜を震わせる。彼の口元は震えながらも自嘲の笑みを浮かべようとしていた。せめて死ぬ間際くらいは格好つけさせてくれと。
あと数秒もすれば地と骨と、血と肉が砕け散る。恐らくは明日の朝にでも、警察か通行人が無残な死体を発見するだろう。発見者の心に深い傷を残すような、身元特定すらままならぬ損壊死体を。
どうしようもない状況。まさに今際の際。だが、唯一つだけ、窮地に追い詰められた者だけに許された特権が彼には残っていた。
それは死を覚悟した人間というのは、桁外れに物分りが良いということだ。あっさりと死ぬ、という意味ではない。むしろ逆だ。本来は自分の命を優先させる為に選べない選択肢を、この時ばかりは容易く選べてしまう。さながら自分というモノを、そのまま丸ごと実験材料にするが如く、使い潰してしまう。そんな愚者のことを、人は皮肉を込めて"無敵の人"と呼ぶらしい。
「……ッッ!!!!」
この瞬間、秀彰は初めて生や勝利への渇望ではなく、純粋な好奇心だけで『力』を使った。もはや万策尽きたというのなら、この際悪策に手を染めてみるもの面白い。普段なら取るべき価値もない合理性の無い行動を、最期の足掻きとばかりに無謀な道を選ぶ。
秀彰は動かない足の代わりに左手を地面に押し付け、プルプルとみっともなく震える右腕を化物へと突き出した。
「……うおおおぉ、らぁぁッッ!!!!」
足りない集中力は、その分痕印のエネルギーから補った。四方八方に『力』を解き放っては、自分の命に従うモノだけを使役する。向かう先は、毛髪に触れるほどに迫った化物の腕。その凄まじい威力は、どれほど砂や石を集めても守りきれない事は分かっていた。
ならば、発想の逆転だ。
一つ、この化け物の体は岩石で出来ている。
一つ、自分の痕印能力の触媒は何だ?
「グ、ググッッ、グゥゥ!!!?」
唐突に、振り下ろされていた化物の腕が、空中でピタリと停止した。ワイナルトの『力』が怪物の腕を、能力の媒介として支配したのだ。豪腕の急停止で発生した衝撃波にズタボロの身体が沈みかけるも、秀彰は歯を食いしばって耐え抜く。
「う、ぅぅぅぅ、ぉぉ……!!!」
じっとりと、秀彰の額からは大量の脂汗が滲んでいた。圧し折られた足の痛みと衝撃波に耐えながら、同時に『力』を操る集中力を搾り出している。何か一つでも欠ければ全てが終わるという絶体絶命の土壇場でも、彼の瞳は怖じ気付くことを知らなかった。
「くだ、け、ちれぇぇッッ!!!!」
使役者の命に従い、化物の右腕が音も無く崩れ去ってゆく。それを食い止めようとしたのか、怪物が肩を強引に振り回すが、肩口より下の部位は全く動かず、むしろ与えた振動のせいで自身の崩壊を促進していた。パラパラと小石と砂が、雨あられのように秀彰の髪に降り注ぐ。それを払いのけながら、秀彰は完全に風化した化物の右腕を見て、にやりと笑った。
目論見は成功し、怪物に多大な痛手を負わせる事が出来た。後はここから反撃の狼煙を上げれば良い、が――。
「……ぅ」
体重を支えていた左腕が疲労し、秀彰はドサリと重い音を響かせながら顔面から地面に倒れ伏す。精神力も体力も、とうに限界だ。痕印者として覚醒してから今日のこの日まで、常に自分の能力の限界値と応用範囲を研究していた彼だからこそ、分かりきっていた現実だった。
意識は混濁し、視界は地面にめり込んだまま土葬後の世界のように茶色く暗い。狂ったように唸りを上げる化物の咆哮が、止まぬ頭痛となって襲い続ける。
(結局、俺の命を天秤に乗せたところで、努力賞止まり、ってか……)
ドクンドクンと無理をさせた筋肉が反乱を起こしたように脈動し、その反動で寝返りを打つように半身だけ転がった。視界の半分は地面を映しながらも、辛うじて自分の生命を終わらせにくる怪物の挙動だけは認識できる。
「は、はは」
秀彰はもう自分が何を思っているのか、何を考えているのか分からなかった。近付いてくる怪物を恐れる事も、怪物から逃げる事も無く。ただ、口元からは自嘲の笑みだけが零れている。プライドも執念も無くした今、赤坂秀彰という存在に残るモノは何も無かった。
「グゥゥゥオオオオォォオ!!!!」
腕よりも巨大な化物の足が秀彰の命を踏み潰すべく高らかに持ち上がる。絶望に意識を明け渡す決心は、驚くほど簡単に出来てしまった。
(結局俺には――痕印者に成る資格が無かったんだ)
薄れゆく意識の片隅で、秀彰の瞳が最後に捉えたのは、ぼぉっと燃え上がる紅い炎だった――。




