第九話 焔心の魔女 (1)
刻限は午後六時半を回った。宵闇に染まりゆく山の麓を、無数の蝙蝠たちがまるで夜間警護でもするかのように、小さな旋回半径でスピンターンを繰り返している。その群れの下を自前のマウンテンバイクに跨がりながら、秀彰は全速力で野道を駆け抜けていく。もう少しで目的地――公安特務執行部が管轄する訓練施設への往路が見えてくる頃だ。
(本当に真田センセは此処に居るのか?)
此処に至るまでの間、幾度と無く繰り返してきた自問自答。募る焦燥感が不安を煽らせ、幽玄な薄暮の空さえも憎々しげに映る。
(いや――今更悩んでも無意味だ)
もやもやとした思考を払うべく、秀彰は足元のペダルを蹴り付けてひたすら漕ぐ。痕印者との交戦も予想される為、万全とは言えないが最低限の準備は済ませてきたつもりだ。服装は防風性のジャージに着替え、靴も極力動きやすいようにスニーカーへと履き替えている。ハンドルを握る手にも俄然力が篭る。
やがて、記憶に新しい登山口が見えてくると、秀彰はブレーキを握り潰した。細長いタイヤが甲高い悲鳴を上げて地面を擦り、シャープな車体は急減速しながら路傍へと滑り込む。そのまま鍵も掛けずにマウンテンバイクを捨て置くと、細かく舞い上がった土煙を残しつつ山路へと分け入る。のんびりしている暇はない。荒れた地面を踏みしめながら、急な斜面を駆け登っていった。
だが、十数歩も進まぬ先に秀彰の足は止まる。斜面を登りきった先のやや開けた山道の真ん中に、奇妙な人影が一つポツンと、こちらに背を向けながら佇んでいることに気付いたからだ。
(誰だ……特行の関係者か?)
一瞬そう勘ぐったが、それにしてはどうにも様子がおかしい。不穏な空気を感じてもう半歩前に出ると、その影はさながら秀彰の接近を読んでいたかの如く、くるりと反転し、不気味な相貌を曝け出した。
「よもやこの大事な時機に斯様な珍客が舞い込んでくるとはの」
やけに背丈の低いそれは声も格好も老人そのものだった。紋付きの羽織袴を身に纏い、腰には胡蝶蘭を模した鍔付きの日本刀を携えている。皺だらけの顎に手を添えつつ、奇怪な調子で嗤うその特徴的な老顔は、秀彰の記憶の淵にハッキリとした輪郭を残していた。
「テメェのその顔……見覚えがある。廃墟公園で瀬能と女を逃がした奴だな?」
「ほぉ、大した記憶力だのう。儂はほんの一瞬、手を貸しただけじゃというのに」
老人は値踏みするかのように、秀彰の顔をジロジロと無遠慮に見回している。濁り淀んだ眼が上下左右に蠢く度、言い様のない悪寒が背筋を撫でた。あの悪魔染みた痕印者の少年と同等、いや、下手すれば彼をも上回る凶悪で純なる殺意が、この老人の周囲から迸っているのを秀彰は感じ取る。
「まぁ好い。ここで逢うたが百年目……おおっと違うた、他生の縁じゃ。ヌシには少しばかり協力してもらうとするかの」
「協力だと?」
着物の袖口に両手を組み入れながら悠然と言葉を紡ぐ老人に、秀彰は威嚇の意味も籠めて睨みつける。対峙しているだけなのに、全身からは冷や汗が止めどなく溢れ、ジャージの内に着たシャツを湿らせていく。
「ふざけんじゃねえ、誰がテメェらみたいな外道集団の手先になるかよ」
「カカッ、何を勘違いしておる。儂は何処ぞの愚女とは違うて、ヌシを仲間に引き入れようなどとは思うておらんわい」
さながら下駄を地面に叩きつけるが如く、奥歯を打ち鳴らして独特の笑いを響かせた老人は、バッと袖口から抜き取った両手を水平に薙いだ。
「んだと?」
「むしろその逆よ、此方には是が非でもヌシの敵愾心を煽らねばならん理由があるのじゃて」
刹那、ソイツの周りに漂う空気がぐにゃりと歪み、薄暗がりの山路が漆黒の闇へと変貌する。
(――ッ!? これが、コイツの痕印能力か……ッッ!)
その奇異なる光景に唖然としている秀彰の前で、老人は白骨のような歯を見せつけ、嗤っている。
「くくっく、そう怯えるな。言ったであろう、敵愾心を煽ると。儂が手を下しては意味が無いのじゃ。ヌシがひたすらもがき、抗い、気を吐き続ける姿をこの目に収めんことには大義が果たせぬのよ」
「ワケ分かんねえ事くっちゃべってんじゃねえよ、老いぼれジジイが」
秀彰は右手で作った拳に力を込め、痕印の命脈を滾らせる。それを機に、ジャージの下に潜めていた肩口の幾何学模様が青白く発光し始めると、周りに落ちている石塊がカタカタと震えだした。
「テメェがここに張ってるって事は、この先に真田センセが居るって証拠だろ?」
「さて、どうじゃったかの」
「だったらそれでいい。理由はそれだけで充分だ。テメェらの企みなんて知ったこっちゃねぇ。お望み通り、全力でぶっ倒してやるよ」
「カカカッ、なんたる単純愚直な男か! 好い好い! それでこそ気概溢れる若者の姿よ!」
老人は骨身の輪郭を愉快げに歪ませて高笑いを浮かべた。その窪んだ眼窩の奥には隠然と研ぎ澄まされた瞳が不気味に煌めいている。
「ただし、相手をするのは儂ではのうて――彼奴じゃがのぉ」
その時、老人の周りに展開されていた闇が突如として広がり、中から一人の男が放り出された。ドサリと派手な音を立てて、まるで不要になった荷物を投げ捨てるかのように乱暴に地面へと叩きつけられたその男は、微かな呻き声をあげながら顔を半分だけ持ち上げてみせる。
「!!?」
途端、道路で轢かれた猫の死骸を見たときのような、回避不能の怖気がひた走る。見覚えがあった。名も知らない男の相貌を。つい先程目に焼き付けていたばかりのその悪辣な面構えを、秀彰は鮮明に覚えていた。
「お、お前は……写真の……っ!?」
咄嗟に声を掛けてしまう。だが、その男は秀彰の言葉など無視して、硬く荒れた地面にガリガリと爪を立てている。爪は裂け、血が滲んでも、ソイツは一心不乱に地面を掘り起こそうと自傷行為を繰り返す。既に気が狂っている。いや、狂わされているのだ。
「儂が撒いた『種』は三つ、内二つは呆気なく枯れてしもうたが、残る一つは辛うじて実を結んだ。くく、まあヌシの頭では何一つ理解出来ぬじゃろうが、分かる必要も無いから安心せい」
「何を……何を言ってやがんだ、イカれジジイ――っっ!」
もはや老人の吐き出す意味不明な言葉に、疑問を投げる余裕すら無かった。反射的にその場から飛び退った秀彰は、周囲に蔓延しているあらゆる殺気に目を光らせつつ、痕印の力を篭めた右手を構える。自分の呼吸がうるさいくらいに耳を叩く。
「はぁーっ、はぁっ、……ぐっ……うぅぅ……っ!!」
怖気、吐き気、その他諸々の拒絶反応が、秀彰の胸底から喉元へと一気に押し寄せてくる。瞳は充血し、ガチガチと奥歯が鳴る。今、自分の目の前に居るのは聖痕民団の痕印者。中でも上位の部類に入る実力者であることは間違いない。だが、それだけでは到底この周囲を取り巻く異様な存在感の説明が付かない。以前に戦った瀬能亮太という生粋の殺戮者とはまた別の恐怖、言うなれば人類の捕食者と対峙しているかのような、圧倒的な絶望感を覚えていた。
「ほう? その尋常ならざる怯えよう……クカカ、成る程成る程。あの御方が『勘が良い』と見込んだ理由がようやく理解できたわい」
まるで秀彰の怯え方が正解だと言わんばかりに、老人は何度も頷きながら独り言ちている。
「面白い、ならばその器が果たして此奴に通用するか、この儂が直々に見届けて進ぜよう。よもや逃げ出そうとは思うまいな? 無駄じゃ無駄じゃ。もしヌシが臆病風に吹かれようものなら、即座に後ろからバッサリと無様な背中を切り裂いてやるから、そのつもりで戦えよ。なに、それ以外の邪魔立てはせんから安心せい。決着が付くまで儂は特等席で観戦しておくとするわい、クカッ、カカカッッ!!」
骨身の顔がニンマリと歪み、枯れた唇が邪悪な弧を描き出す。同時に老人の周りに広がっていた闇が巨大な瞳の形へと変容し、使役者の小さな身体を易々と呑み込んでいく。見覚えのある不可思議な光景。それはあの夜、奴らの逃走を手助けした時と同じ現象だ。痕跡すら残さずに忽然と闇の中へと消え失せようとする様を見て、秀彰は咄嗟に叫んだ。
「ま――待ちやがれっ!」
だがその直後、鼓膜を突き破りそうなほどの大声量が、薄暗がりの山路に響き渡った。
「オオゥゥゥウウウゥゥゥォォォォオオオ!!!!!」
「――ッッ!?」
反射的に秀彰は音の方へと振り返る。そこに居たのは先程まで発狂しながら地面を穿り続けていた男。だが、様子がおかしい。人生を壊され、絶望のまま土竜のように地表を掘り起こしていた彼は、今や自らの腰を砕かんばかりに背筋を大きく反らしつつ、雲間に隠れた半月に向かって高らかに咆哮していた。それだけならまだ奇行の一種として捉えられただろう。やがて男の身体が見る見る内に膨張変形し、3メートルを超すほどの巨大なシルエットと成り変わった時、秀彰は遅まきながらあの老人が暗示していた意味を――外道な人体実験の片鱗を窺い知ったのだった。
「な……なんだよ、おい……っ、お前、一体あのジジイに何され――」
秀彰が問いかけた疑問の続きは、突発的な地響きによってかき消される。グラグラと靴裏が地面に吸い付きながら揺れる感覚を覚えたと同時に、とんでもなく強大な重圧感が迫り来るのを、気配察知した耳裏からの第六感で感じ取る。
「っ、お、おおおおおっっ!!?」
ブレる視界の中心で、異形の者がこちらへと突進してくる姿が映る。最善手を考える間などなかった。秀彰は即座に右掌を地面へと突き出し、痕印の力を開放する。刹那、両靴裏と隣接していた地面だけが地表から切り離したように空中へと撃ちだされ、秀彰の体ごと吹き飛ばす。数秒後、怪物の巨躯が眼下を猛烈な勢いで通過した。
「……ぐっ、ぅぅ……はぁー……っ、はぁ……っっ」
純粋な殺意だけで繰り出されたかのような剛体の突撃は回避できたが、それはあくまで緊急回避でしかない。すぐに鈍い落下音と共に、秀彰の身体は砂煙を巻き上げながら斜面を転がり落ち、やがて二回転半ほどした地点で停止した。
生きている。そう実感した途端、どっと汗が吹き出てきた。それをジャージの袖で拭いつつ、束の間の安堵の息を吐く。だが、寝転んでいる場合ではない。秀彰はしたたかに打ち付けた腰を叩いて気合を入れると、元は人間だった異形の相貌をじっと眺める。
「……正真正銘の化物ってヤツか」
その手足は丸太並に太く膨れ、かつ鈍みを帯びた銀色に輝き始めている。例えるならそれは、幻想の世界に登場する石人形に似た体躯をしていた――。




