第二話 深夜の校舎 (1)
月明かりだけが差し込む深夜の校舎に、硬い靴音が木霊する。右手に掲げた携行用のランタンが照らす影は小さいが、背筋はマネキンの如くピンと張り詰めており、暗闇に包まれた廊下を悠然と歩く様は、彼女の勇ましい性格を文字通り投影していた。
不意に、廊下の隅の方で何かが揺さぶられたような音がした。彼女は驚いた様子もなく、手にした明かりをそっと近付けてみる。僅かに映ったのは灰色の毛皮と小さな尻尾、ネズミだった。か細い鳴き声を残しつつ、逃げ去っていく小動物の後ろ姿を見送りながら、彼女はふっと短い溜め息を吐いた。
(全く、自分達の働く職場を怖がってどうするのよ。情けないったらありゃしないわ)
まるで微塵も恐怖を感じさせぬ表情で、彼女はランタンの光を廊下の窓に掲げた。オカルティックな存在などより、ぼんやりと浮かぶ白髪染めの落ちかけた自分の髪の方が、よほど現実的な悩みだった。今年で教員生活四十余年を迎える定年間近のベテラン教諭――林喜美代には、宿直当番を嫌がる新任教師の心境が全く理解出来ずにいた。
夜間の校舎巡回は単なる肝試しではなく、れっきとした実務なのだ。施錠漏れの確認を怠れば不審者や泥棒の侵入を安易に招き、長年培ってきた本校の信頼に傷を付けることになる。それくらい、着任直後の教育実習生にだって理解出来るだろうに。彼女は小さく溜め息をつき、苦々しげに眉を寄せた。
(とはいえ、その見返りで定年後もここで働けるというのなら、有難い事ではあるけれども)
臆病者の部下の尻拭いと思えば不満はあれど、夜回り業務自体は別段嫌いではない。彼女にしてみれば散歩みたいなものだ。年を経るごとに皺が増え、自信のあった体力も衰えを感じ始めたが、それでも世間一般の同世代女性よりはずっと若々しく、健康的だ。誰よりも学校を愛し、教職に携わることが生き甲斐である彼女には、老いなんて理由にならない。「くたばるまでが現役」、それが鬼教師と呼ばれる彼女の口癖だった。
(だってまだまだ人生半ば、折り返し地点だもの。あの人には悪いけど、私は当分『そっち側』に行く気はありませんからね)
ふと、彼女は歩を止めて廊下の窓越しに夜空を見上げた。月明かりでぼんやりと照らされた暗空には幾つもの星が瞬いている。三年前に胃がんで先立った夫へ思いを馳せながら、ふっと表情を弛めた――その時だった。
「……っっ!?」
――ガシャン。
それまで静寂を保っていた夜の校舎に、聞きなれない派手な音が響き渡る。下の階からだ。咄嗟にそう判断した彼女は、暗澹とした廊下を全速力で駆け抜けた。
頭上に掲げたランタンの明かりを頼りに、小柄な身体が闇夜を切り裂くように疾走していく。つい二年ほど前まで強豪女子バスケ部の顧問として生徒達に負けじと練習していたこともあり、身軽さと体力には今でも相当の自信がある。老いたとはいえ、まだまだ現役学生に遅れを取るつもりはない。とにかく負けん気だけは強い婆様だ。
(あの教室からだわっ!)
階段に辿り着いてもなお勢いを殺さぬまま、二段三段と飛ぶように階下へと降りていく。やがてある教室から物音がしたのを聞きつけると急いで手持ちの合鍵で解錠し、転がるように室内へと飛び込んだ。
「誰っ、誰かいるのっ!?」
乱れた息のまま、彼女は開口一番に叫んだ。しかし、返事はない。暗がりの中、ランタンを頭上に掲げて周囲の様子を注意深く観察する。するとキラリと、部屋の床で何かが光った。
(窓ガラスの破片、みたいね)
その筋道を辿っていくと校庭側の窓が一つ、派手に打ち破られていたことに気付く。予期せぬ展開に彼女は口元を押さえつつ、息を呑んだ。
(……悪質な悪戯かしら)
パキリパキリと、床上に散乱したガラス片を踏みしめながら、部屋の中央まで歩む。周囲から怪しい物音は聞こえてこない上、割られた窓の向こうは校庭だ。さすがに校庭まで鬼ごっこを繰り広げる気は無い。
彼女はかぶりを振って気分を切り替えた後、今後の自分の行動について予定を立てることにした。宿直室に戻ったら、まずは警察に連絡しよう。その後は…気が進まないが校長へ一報を入れておかないといけない。言えば言ったであの口煩い狸親父から嫌味を言われるのは明白だが、これも組織の人間としてやらねばならない仕事の一つだ。
そんな事を考えながら、教室の入り口に戻ろうと一歩踏み出した時だった。自分しか居ないと思い込んでいた部屋の隅から、甲高く、それでいて粘りつくような声が響いた。
「ねぇ、ボクと一緒に遊ぼうよぉっ!」
「――っっ!?」
不意の出来事に体が反射的に動いたせいで、流し台付きのテーブルへ腰を打ち付けてしまう。常人ならパニックになってもおかしくない状況だが、彼女は気丈にも明かりを盾にして、正体不明の存在と対峙する事を選択した。
「どこの誰だか知らないけど帰りなさいっ、この学校はあなたの遊び場じゃないのよっ!」
甲高い声の調子から、相手は大人ではないと直感的に悟った。故に彼女の言葉も説教染みたものになる。忠告を受けた影は面食らったかのように、一歩二歩と後退った。効いている、そんな風に軽率に思ったのが彼女の人生史上で最大の誤算だった。
次の瞬間、影は四つん這いの姿勢から弾かれたように跳躍し、おぼろな明かりの下へと躍り出た。その動きは明らかに常軌を逸した、狂気のモノだった。
異様な気配を感じ取った彼女は、思わず後ろへ飛び退こうと試みるが――。
「……なっ……!?」
「くひひ、どうしたのさ。面白い顔しちゃってさぁ」
動かない。懸命に力を込めても、まるで地面に打ち付けられた鉛の靴を履かされたが如く、彼女の足首はビクともしなかった。
「ぐ、ぐぐ……っっ」
「ムダだよ。ボクの能力の範囲に入ったら最後、壊れるまで玩具になるしかないんだから」
「な、なにを……、言ってるの……、……うぐっっ!?」
意味不明な問答に不可解な現象が続き、老獪な女教師の顔にも焦りの色が浮かび始める。それでも彼女は動かない足を睨みながら、必死でもがいた。気がつけば、影の気配は目の前にある。せめてその顔だけでも拝んでやろうと、垂れ下がったランタンを掲げようとしたが、闇から伸びた足によって無情にも弾き飛ばされてしまった。
「こういうことさ。『グラシャラボラス』――”潰れ”ちまえ」
「ふぐっ、ぐぐううううううっっ!?」
耳障りな音を立てて、彼女の手からランタンが転がり落ちる。彼女の顔は苦痛に歪み、声にならない声を上げた。影の命令に従うが如く、凶悪な負荷が老教師の足に宿ると、老いた細足は靴もろとも木造校舎の床板にめり込みながら、無残にも圧し潰れていく。
「ぐっっ、ぐぎっ、……ぃっっ!?」
「なぁんだよぉ、元気な声がしたから遊んでやったってのにー。こんな皺くちゃのババァじゃ五分も持たないじゃん。つまんなーい」
聞こえてきたのは惨劇を招いた張本人とは思えないくらい、やけに幼い口調の声。直後、破損した窓の向こうから一陣の夜風が吹き込み、締め切っていたカーテンを大きく靡かせた。
今宵、燦々と降り注いた月光が、無邪気に笑う影の正体を露わにする。
(……なんてこと、まだ子供じゃないの)
痛みも忘れ、思わず息を呑む。目の前に居たのは背丈百四十センチほどの、チェック柄の赤いキャスケット帽を被った幼い少年だった。生えそろったばかりの白い永久歯を魅せつけるように、ただただ愉快に嗤っている姿を見ていると、彼女の背筋がゾクリと震えた。
それは揺るぎない死の予兆。これから自分は殺されるのだという、確証めいた閃きが彼女の全身を雷光のように直走る。
(あぁそうか、私はここで死ぬのね)
この時、意外にも彼女は至極あっさりと自分の死期を受け入れた。理不尽な運命を呪うのでもなく、抗えない自分の無力をただ寂々と悟り、無心で享受した。すると皮肉にも腹が据わり、妙な活力が湧いてきた。いや、この場合活力とは適切ではないのかもしれない。生きるためではなく散るための力なのだから。死にゆく老体に残された力を目一杯振り絞りつつ、林教諭は最期の壇上へと登壇する。
「ババァですって、言ってくれるわね……。こう見えても私はまだ六十と少しよ、せめておばさんって言って頂戴」
「えぇぇ~、うっそだぁ。皺くちゃのお化けみたいな顔して」
「嘘じゃありません、失礼な子ね」
無遠慮な少年の物言いに、彼女はムッと頬を膨らませた。足を押し潰され、地面に這い蹲っている人間とは思えない、陽気な仕草だ。
「それにね、皺だってそう悪いモノじゃないのよ。”皺の数だけ優しくなれる”って名言、知らない? 昔、オードリーって素敵な女優さんがね、若い頃の顔と今の年老いた顔を比べられたときに言った言葉なの。だから今の顔の方が好きなんですって。私もそう思うわ。この顔に刻まれた一本一本が、私が必死に生きて、たくさんの生徒たちと笑ったり泣いたりしてきた証拠だもの。若い頃のツヤツヤ肌より、ずっと価値があるのよ」
「ふーん、へぇ~、あっそ」
少年はさも興味なさそうな顔で、床に膝を付いた彼女を見下ろした。言葉を紡ぐたび、足元に血の海が広がりつつあるのも見えているはずだ。だからこそ想定通りに進まない獲物の反応に、苛立ちを隠せない。
「そんなに皺が好きなら、ボクがもっと付けてあげるよ」
「いらないわ。そんなの、ただの傷じゃない。女の顔は命なの」
「……っ、イチイチうるさいババァだなぁ……っっ」
少年はゆっくりと右手を掲げ、彼女の頭へと照準を向ける。それがトドメを刺す行為だということは、事情を知らぬ彼女にも何となく分かっていた。
「そうやって命乞いしようっていうんでしょ? 知ってるよ、大人って皆汚いヤツばっかだから」
「さぁ、どうかしらね」
「けどそんなの知らない。ボクが殺すって決めたら、必ず殺す。グチャグチャに潰して、ゴミみたいに捨ててやる」
交わり合う二つの視線。だが、揺らいでいるのは若い瞳の方だ。やがて耐え切れなくなったのか、少年は右手を向けたまま彼女に問いかける。
「ねぇ、おばさん。今から死ぬのに怖くないの?」
「怖くないわけ、ないじゃないの」
まるでその問いが来るのを待っていたかのように、彼女は即答した。月光に照らされた顔は病的に青白く、既に全身から血の気が引けているのは明白だった。
「でもね、人はいつか必ず死ぬわ。どんな人にも終わりが来る。終わりがあるからこそ、人生に価値が生まれるの。早いか遅いかはどうだっていい、大事なのは締めくくり。それと――」
「………? それと、なんだよ」
急に言葉が途切れ、続きが気になった少年は彼女の顔元まで近づいた。そのタイミングを見計らっていたかのように、死人同然のはずの手が、最後の力を振り絞るように、しかし驚くほど穏やかに伸びていく。
「え、わ、……うわっっ!?」
予期せぬ行為に少年は慌てふためく。それまで憮然と余裕の中間にあった彼の表情は一変し、不用意な行動を後悔した。
だが、彼女の手は予想していた首筋を通らず、少年の背中へと優しく伸びていく。
「それとね――終わりを見届けてくれる人がいるかどうか、なの」