小さな痕印者 (2)
起死回生の手段を閃いた少女は迫り来る怪物を無視して、落ち積もっている枯れ葉に向けて電撃を送り込んだ。
少女の体に刻まれた痕印『ミカヅチ』から青白眩い光が溢れ出すと、辺り一面に広がる大量の紅葉や銀杏の葉を巻き込んで発火が起こる。季節は晩秋、燃える火種は文字通り掃いて捨てるほど転がっていた。
やがてパチパチと火花散る音とともに少女の足元から不透明な煙の壁が沸き上がる。使役者である彼女の気管にも煙が入り込むが、そんな事はお構いなしにさらに電撃の力を上げ、炎の勢いを強くしていく。
やがて周囲に立ちこめていた煙は視界ゼロの超密度に達し、ついに少女の姿を完全に隠し通した。彼女の立っていた場所には、ただ灰色の煙が充満しているのみである。
そこへ三度目の怪物の突進が繰り出される。が、煙に覆われたはずの少女の姿はどこにもない。焦った怪物は周囲を見渡すが、濃い煙のせいで視界も匂いも掴めなかった。正しく煙に巻かれた状況だ。
「グゥゥ、ゥゥ……!!」
視界不良の最中、怪物は巨体を振り回しながら雄叫びをあげた。それでも煙が晴れることはなく、怪物は怒りのままに長尾を振り回して火種を叩き続ける。燃え続ける木々や葉を粉々にするほどの凄まじい風圧によって、一瞬だけ怪物の周囲の煙が晴れた。だが、それは同時に決着の合図となる。
「はい、みぃつけた」
ズンと重みを増した怪物の背から聞こえてきたのは、少女の茶目っ気混じりの声だった。
煙幕を焚いてから彼女はずっと木々の上に退避していた。煙が立ち込めれば少女の方も怪物の位置を視認できない。だからこそ少女は敢えて怪物が暴れて煙を払ってくれるのを待ったのだ。
一か八かの大博打。結果として少女は賭けに勝ち、怪物の背を捕らえた。剛直な体毛で覆われた体は広く、お陰で足場にするのに苦労はない。
「ギッッッ――!!?!」
「落ちろ、『ミカヅチ』」
生物的な恐怖を感じた怪物が振り落とそうともがくより疾く、少女が最大限の電撃をその肉体に注ぎ込んだ。
轟くは雷鳴と絶叫。
「ギャゥゥゥォォォォォ!!!?」
両手で怪物の背を掴みながら、少女は超がつくほどの高圧電流を流し続ける。全身が焼け爛れるような激しい電撃を受け、怪物は断末魔の声を上げながら暴れたが、しかし少女は手を離すことはない。
時間にして僅か5秒。触れれば一撃の自信通り、怪物の体はみるみる黒焦げと化した。
あらゆる部位を黒く染め上げた怪物が力なく倒れ伏していくのを横目に見ながら、少女はゆらりと着地した。怪物の生命活動が停止し、亡骸となったことを確認すると、少女の顔に安堵の表情が広がる。同時に緊張の糸も途切れたようで、疲れ切った溜め息まで漏れた。
「ふぅ、大変だったわ」
パンパンと防護ジャケットに纏わり付いた葉っぱを払い落とし、少女は煤だらけになった髪を掻き上げる。一先ず依頼された仕事はこれで終わったが、問題は――、
「あらら…、これじゃ帽子も見つけられないじゃない」
怪物を倒してなお炎上を続ける森の後始末だった。
※
「そ、それで、俺が駆けつけた時に消防団の人に怒鳴られてたってワケですか? がはっ、あはっ、あははははっっ!!!!!!!」
「笑い事じゃないわよっっ!! もう、死ぬ気で異怪種を倒した後だっていうのに」
夕暮れの喫茶店。そこには先程まで異怪種と死闘を繰り広げていた少女と、トレンチコートを着た刑事風の男がいた。男の方は目の前に座る少女の部下、名を真道龍一という。どう見ても真道の方が年上に見えるが、実年齢は少女の方が上らしい。
「そりゃあね、山火事にでもなったら大変だから消防署にも連絡しておいたわよ。なのに、まさか消防団の人がいきなり怒鳴ってくるなんて思わないじゃない?」
そう言って、彼女は不貞腐れた様子で頬杖をついた。
「で、その消防団員にはなんて言われたんです?」
「『ここは危険だから別のところで遊びなさい』、ですって」
「ぶあっはっはっははははっ!!!!」
堪えきれず、真道は盛大に吹き出した。腹を抱え、涙目になりながら笑う部下を見て、少女はむすっと頬を膨らませて恨みがましい視線を向ける。
痕印者の特性として、一度痕印の啓示を受けるとそれ以後の肉体成長は著しく遅くなっていく。痕印を与えられた時点の年齢がそのまま肉体に固定されてしまうのだ。
故に痕印者ではない普通の人間から見れば、少女は外見通り『中学生』くらいの年齢に見られても不思議ではない。
「真道。いい加減他のお客さんの邪魔になるから、黙りなさいよ」
「ひ、ははっっ、すいませんねぇ、命さん」
命の言葉でようやく真道の笑いは収まった。周りにいた客たちは二人のやりとりに不審な目を向けていたが、急に真面目になった真道の顔付きに驚いて視線を逸らした。
「それで、今回の異怪種はどういったヤツだったんです?」
「事前に貰っていたデータ通りの合成獣系統の異怪種だったわ。ただ……」
命は一旦、そこで言葉を切る。その間を埋めるようにアイスコーヒーを口に含んだ。
「ただ?」
「今までの異怪種とは違って、かなり知能的な面があったわね。まるで『知性』が目覚めたかのようにこちらの出方を見て罠を張ったり、撹乱したり…とにかく色んな手を打ってきたわ」
命の言葉に真道は目を見張る。今まで数々の異怪種と交戦してきた真道にとっても、そんな報告例は聞いたことがないのだろう。
「異怪種が、知性? そんなの聞いたことないですぜ」
「私もよ。本部の秘匿データベースにもそんな記録はないわ。偶然現れた個体なのか、それとも新種の可能性が高いのか……」
顎に手を置きながら、命は考え込む仕草を取る。ふと、彼女が向かいに座る部下を見てみると、やけに真剣な眼差しでこちらを見ていることに気付いた。
(まったく…どこまで仕事熱心なんだか)
痕印者という存在は常人以上の力を発揮できる代わりに短命な者が多い。力に溺れてアウトローな道に走る者も居れば、反対に世の安寧の為に体を張る者も居る。後者の場合、特に根が真面目な人間であればあるほど、自己犠牲の精神で任務に挑んで命を落とすことが多くなるのだ。
「ま、この話の続きは後日改めてしましょうか」
「んなっ…!?」
出鼻を挫かれた真道は間抜けな声を出す。命はこれ以上彼に余計な言及をさせぬよう、さっさと立ち上がった。
「さぁいくわよ真道。私はもう疲れちゃったから、帰って寝たいの」
仕方なく真道も腰を浮かし、彼女に続いた。
「ホントに続き聞かせてくださいよ。命さんってばいっつも話はぐらかすからなぁ」
「それはアンタも同じでしょ。ほら、早くお会計してくれる?」
そう言って命は自分の分の伝票を真道へと押し付けた。こういう所だけはちゃっかりしている。ちっと舌打ちをしながら真道は渋々飲食代の支払いを済ませようとレジに並ぶ。
「なぁんかいっつも俺が払ってる気がするんですけどねえ…たまには命さんが払ったっていいんじゃないです?」
「……へい?」
真道は嫌味のように首を後ろに曲げて命の方を見ようとしたが、そこには知らないおっさんの顔があった。どうやらあの小さい上司は先に車の方へと向かったようだ。
途端、真道の額に冷や汗が浮かぶ。どうにもあの上司が一人で動き回ると、待ち構えていたかのようにトラブルと衝突するのだ。
「ありがとうございました~」
レジ担当の女性が発するお礼の言葉を背後で聞きながら、真道は急いで店外へと飛び出していく。そして自分の停めてある車の前まで駆け抜けると、呆れたように溜息を吐いた。
「どうしてあの人はこうも俺の期待を裏切らないんだか」
そこには数人の警官たちと揉めている上司の姿があった。ぎゃあぎゃあと言い争う声がここからでもハッキリ聞こえる。
真道はごそごそとズボンのポケットを探る。やはり車のキーがない。レジに並んでいる間に抜き取られたのだろう。だとすれば事の発端は――、
(まさかあんな格好で車を運転しようとしたのかぁ? そりゃあ、警官たちも止めるよなぁ…)
いくら実年齢が30歳を超えてるとはいえ、命の顔立ちや身長はそこらの中学生と大差ないのだ。しかも彼女が持ってきた替えの私服は何故か低年齢層が好みそうな「いかにも」なデザインをしているのだから質が悪い。
(つーか、さっきもその事で苦労してたんじゃないのか?)
真道は指先でこめかみを押さえながら、諍いの元凶へと近づいていく。
「だ~か~ら~! 私はもう成人してるって言ってるでしょ! 免許だって持ってるのよ!」
「キミィ、嘘はいけないよ。落ち着いて。お家の人に連絡しようか?」
聞えてくる会話の切れ端を集めると、やはり真道が推測していた通りの状況だった。命が運転席に乗り込んでいたところをたまたま近くをパトロール中だった警官に見咎められ、現在の騒ぎに発展してしまったらしい。
このままでは感情的になった命が自身の正体を明かしかねない。そう危惧した真道は、すっと警官たちとの間に入っていく。
「あぁ、すんませんねぇ、お巡りさん。コイツ、俺の妹で」
突如現れた男に警官たちは面食らったが、真道は構わず続ける。
「見た目はこうですけど、これでも成人してるんですよ。でも、信じてもらえないのがいつものオチでしてね。ご迷惑おかけしました」
真道の言葉に、命は「フォローになってない!」とでも言いたげな顔で睨みつける。警官たちは二人のやり取りと、真道の大人の対応に面倒事が終わったと安堵したのか、納得して頷いた。
「あぁ、なるほど。そういうご事情でしたか。いえいえ、こちらこそ失礼を」
「どうも。ほら、行くぞ」
真道は命の首根っこを掴むようにして車へと押し込む。警官たちが元のパトカーへと去っていったのを見送って、ようやく二人は車の中へと入った。
残るは、見るからに不機嫌そうな少女の機嫌直しだ。
「………もう!!! なんでアンタはいつも余計なことしか言わないのよっ!!?」
「事実でしょうが。おかげで穏便に済んだんですから、感謝してほしいくらいですよ」
そう言って真道は車のキーを回す。ドゥルルルル、と古めかしいエンジン音を響かせながら、年代物の車はゆっくりと走り出した。
窓からは夕暮れに染まる街並みと、そこに住む人々の平凡な生活が流れている。それを車内から眺める命の横顔は、どことなく憂いを帯びたものになっていた。
「ねぇ、真道」
「なんですかい?」
「もしもこの世から異怪種が絶滅すれば、私達の役目って一体どうなるのかしら?」
何気なく、まるで世間話でもするかのように命は語り出す。
「どうなるって――、別に普通の人として暮らせばいいでしょう?」
「そうよね、その通りよね」
命の相槌にはどこか皮肉的なニュアンスが混じっていた。それに気付いた真道がチラリとルームミラー越しに命の方を見ると、彼女は無表情のまま窓の外を見ていた。
「私達みたいなのがいなくなれば、世界は今よりもっと平和になるのにね…」
ポツリと呟いた命の言葉が、車の中でやけに空しく響く。つい数時間前まで人類の敵と死闘を演じてきた人間のものとは思えない、無力な声だった。
「……そう、ですね」
真道の口から出る同意もまた、これ以上話を続ける気のない声色だった。そんな暗い車内の空気を吹き飛ばすように、真道は強くアクセルを踏み込んで一段とスピードを上げた。
時は昔。
数多の痕印者たちとの戦いの中に身を投じた男子高校生――赤坂秀彰が覚醒するよりも、五年も前の話。