第四話 痕印者 (5)
同日、夜。△△市、歓楽街。
綺羅びやかなネオンサインが眩く照らす夜の町。歓声と嬌声が入り交じる歓楽街にはさながらホースで注水するがごとく、次から次へと人が集っては賑わいの種を撒いていく。そんな絶え間なく続いていく人波の中を、一人の幼子が悠然と歩いていた。
チェック柄の赤いキャスケットを目深に被った彼は、道行く者には目もくれない。だが、時々思い出したようにつばを弄っては、遥か頭上の景色を物欲しげに見上げている。
ちょうど雲が切れ、半隠れだった月が顔を覗かせた時だった。少年はニカリと白い歯を浮かせると、童女のように高らかな声で叫んだ。
「あはは、綺麗なお月様ぁ!」
突然の叫声に、傍に居たサラリーマンは驚いて下を見るが、少年の純朴な笑顔を見ると何も言わずに立ち去っていく。偶然居合わせた派手な化粧をした水商売風の嬢も、声の主が場違いな子供と分かると、やはり素知らぬ顔で立ち去っていった。
少年は、月夜を眺めるのが大好きだった。深海のように暗々と広がる空も、濃煙が棚引き流れる雲も、目に映る情景全てが彼の心を踊らせ、彼の歪んだ創作欲を育む師となった。
まるで月が持つ底知れぬ狂気に誘われるように、彼が動き出す日は決まって『満月』だった。
「まぁるいまぁるいお月様~、今夜はとってもいい気分~♪」
変声期前特有のソプラノボイスで、思いついたメロディを歌い出す。お世辞にも上手いとは言えない歌唱力だが、外れた音程が逆に聞く者の耳に残る、独特な音色を奏でていた。
「おっしごと、おっしごと、楽しいな~♪」
スキップに合わせ、頭のキャスケットがぱたぱたと弾む様は、かつて先人が月の模様に幻視したと言われる、兎そのものだった。
だが、その正体は人畜無害な小動物などでは決して無い。知る人ぞ知る超法規的機関『公安特務執行部』が追いかける連続怪死事件の実行犯にして、悪逆非道の犯罪者集団『聖痕民団』の幹部候補生と謳われる幼き姿の痕印者。
名を――瀬能亮太という。
殺戮兵器が服を着たような存在の彼を、此の町の住人は無意識の内に避けていた。酒と女に溢れ、暴力沙汰も日常茶飯事の夜の街では、必然的に危険なニオイに敏感になるのかもしれない。
しかし悲しいかな、中には生まれ持ってそのニオイに鈍感な者も居た。
「おい、小僧!」
頼りない人工灯で照らされた細い裏路地に踏み入った途端、背後から粘着質かつ威圧的な声が響き渡った。少年は期待を込めた表情でゆっくりと振り返るが、一瞥しただけですぐに嫌悪まみれの渋面へと変わる。
サイズの合っていないズボンに、黒ずんだ防寒ジャンパー。無精髭に伸びっぱなしの長髪をした、小太りの中年男。恐らくはホームレス生活の浮浪者と思しき存在がそこに居た。
「お前……ここで何してんだ? ここら一帯はおいらの縄張シマだぞ!!」
中年男は錆びた銅製の棒をブンブンと振り回しながら、少年をこの場から追い出そうと威圧している。一見すれば気の触れたように見える男ゆえ、常人ならばトラブルを嫌って逃げ出すだろう。
「飯が欲しけりゃ他ん所行けっ、ぽっと出の新入りがぁ! 人の大事な物資を勝手に横取りして良いとでも思ってんのか、あぁん?」
この時、瀬能の後ろには棄てられて間もないゴミの袋が集積していた。中年男にしてみれば、長年温めてきた回収場所をどこの馬の骨とも分からない無作法者に盗られまいと必死なのだろう。
「帰れっ、さっさと帰れっ、クソガキっ! どうせお前には帰る家があるんだろぉ? そんな半端な気持ちで、おいらの邪魔なんぞするんじゃねえよぉ!!」
まるで野犬を追い払うように、中年男は棒で『しっしっ』と合図を送る。すると少年は言い返す風でもなく、余り気味の服の袖で鼻元を覆い隠しながら、投げやりに呟いた。
「……汚い」
「なんだとぉ?」
少年がボソッと呟いた言葉を、中年男は耳聡く拾った。
「はは、お前ぇ、自分がガキだから何言っても見逃してもらえるって思ってんな? 甘んめーよ、そやってガキばっか甘やかすからこの国の景気は良くならねぇんだよっ!」
ガィン、と短い金属音が裏路地に響く。中年男が手に持った銅製の棒で壁を殴りつけたのだ。
「畜生っ、チクショーっっ、ホント、どうなってんだよこの国はよぉ! おいらだって、毎日死ぬ気で生きてんのに、誰も助けちゃくれやしねえ。不平等だっ、理不尽だっ、なーにが弱者救済だよ、くそがあああああああああっっ!!」
嘆きは叫びへと変わり、表通りに響くまでの大声となるが、誰一人として心配して駆け寄ってくる様子はない。ガン、ガンガン、ガン、と不規則で不快な打音が裏路地に虚しく木霊する。
その間も少年は微動だにせず、中年男の奇行をじっと見ている。人を見る目ではなく、珍しい動物を見るかのような、冷めた目で。
やがて体力を消耗し切ったのか、中年男はふらふらと足元を揺らしながら少年の方へと歩み寄っていく。
「はぁはぁ……、ひひ、ビビって動けねぇかぁ? んんぅ? 今ならオジサン優しいから、見逃してやるぞ。あっ、財布は置いてけよ! 絶対だからなっ!」
キシシシ、と気味の悪い笑い声を発する中年男。それを見て、少年の口端が邪悪に蠢く。潰れろ、ゴミムシ。と、紅い舌が囁いた。
不意にパキリと音が鳴る。二人の頭上にあった街灯が砕け散った音だ。周囲の明かりが一段と暗くなり、数多の破片がぱらぱらと落下していく最中、中年男が怪訝そうな声を上げる。
「…………あ?」
見上げると、二つある街灯の内一つが粉微塵に破壊されていた。それが目下に居る少年の仕業だとは気付くはずもなく、中年男はただ奇妙な胸騒ぎだけを抱いてボゥとしていた。
「な、なんだいきなり……、何が起こったァ?」
その直後、再びパキリと破砕音が鳴ると、辺りは暗闇になった。さすがに異変を感じた中年男は、その場から逃げ出したい衝動に駆られるが、せっかく見つけた金蔓を手放す訳にはいかない。
「お、おいっ、逃げるんじゃねえぞクソガキっ! ちっ……なんなんだよぉ、こんな時に、ついてねぇ…っっ!!」
視界を失った中年男は、少年が逃げたと思い込んで前後左右に叫んだ。
「出てこい、おらああああっっ!! 大人を馬鹿にするとどうなるか、教えて――」
「へぇぇ、ボクに何を教えてくれるって?」
威勢良く吠えた刹那、中年男の腹部辺りに青白い光が現れた。ゆらり、ゆらりと左右に揺れ動きながら闇夜を漂っている。
「うひぃっ!?」
人魂を連想させる不気味な光に驚いた中年男は、甲高い悲鳴を発するとよろけながら後退し、ゴミ袋の上で腰を抜かした。
「な、なんだこりゃあ!?」
「汚いゴミがさぁ、喋ってるってだけでも気持ち悪いのにぃ、止めてよねホントさぁ」
少年の声を耳にし、中年男は定まらない視線をどうにか光の方へ合わせた。額を青く光らせた瀬能は軽蔑した瞳で、ゴミ袋に腰掛ける中年男の慌てぶりを見ている。
光の正体が自分より立場が下の少年だと分かった中年男は、たちまち顔をニヤつかせ、僅かばかりの自信を取り戻した。
「へ、へへっ、びび、ビビらせやがって! どど、どうせくだらない手品か何かだろっ? も、もう許さねぇぞクソガキが……死ねよなぁぁ!!」
そう言い放つと、中年男は地面に座ったまま、銅製の棒を投げつけた。横回転を掛けて襲いかかる凶器は、瀬能の顔面目掛けて進んでいく。そのまま幼い鼻先に突き刺さると思いきや、棒は空中で不自然に停止した。
「無駄だよ、こんなんじゃ死なないってば」
瀬能はにこやかに微笑みつつ、掲げた手のひらを徐々に拳へ変えていく。指を折る度、棒はギチギチと金属が圧し曲がる音を立てながら、粘土のように変形していき、やがては床へと落下した。
「……は、はああああぁぁ??」
ゴロンと足元に転がる∪字状の棒を見て、中年男は大口を開けて叫んだ。何が起こったのかまるで分からないが、背筋にゾクゾクと走る悪寒が死の前兆であることは本能で理解した。絶望に染まりゆく獲物の顔に愉悦を浮かべながら、瀬能はキャスケットのツバを後ろに回す。
「ほら、手品だよテ・ジ・ナ♪」
「ば、ばば、ばけ、化け物ぉっ!!」
怯えた声を上げ、手当たり次第の物を投げつけて必死に応戦するが、力の入らない手では瀬能の腰元にすら届かない。
「あははっ、そうだよ! それそれ! その顔が見たかったんだよ! ゴミはゴミらしく、無様な顔で死んでくれないとさぁ、ボク的にもつまんないんだよねぇ!」
「あ、あひいっ、や、止めっ、止めてくれぇっっ!!」
中年男もついには抵抗する意志すら投げ捨て、地面に顔を付けるように崩れ落ちる。
「止める? なんでさ。この世界に絶望してたんでしょ? なら潔く、次の人生に期待すればいいじゃん。ボクがその手助けをしてあげるよ」
「い、命だけは助けてくれぇ!! このっ……この通りだ!」
涙で滲んだ泥状の土床に、鈍く悲痛な摩擦音が響く。大の大人がプライドを投げ捨て、懇願する様に瀬能は邪悪な笑みで応える。
「くひひ、やーだね――『グラシャラボラス』」
「ひぎっ!?」
痕印の名を呼びつつ、瀬能が右手を高々と掲げると、中年男の身体はまるでワイヤーロープで吊られているかのように浮き上がった。
「嫌だぁぁぁっっ、死にたくないいいいいいい!!」
「あーもー、うっさいゴミだな。消音しなきゃ、えいっ」
「へきゅっ」
瀬能が右手に力を込めると、柔らかい破砕音を奏でて中年男の喉が潰れた。細かい血飛沫が広範囲に飛び散り、文字通り血の雨が降り注ぐ。白目を剥き、舌をだらりと垂れさせているが、息はまだある。
「あはは、潰れかけの虫みたいにピクピクしてて面白いなぁ。そーれこねこねー、こねこねー♪」
「……っ、……っっ」
口ずさむリズムに合わせて、瀬能がおにぎりを作るように両手を握り合わせる。ギュッギュと手の平に力を込める度、中年男の身体が小さくなっていく。本人の意志とは無関係に、手足を無理やり身体の内側へ押し込められているようだ。
「よっ、よっ、こんなもんかな?」
瀬能が手を止める頃には、元は中年男だった身体は直径四十センチほどの不恰好な肉塊のオブジェへと変貌していた。
「ふぅ、いい汗掻いた~。どうせ殺るならこれくらい遊んどかないとね」
握っていた両手を離すと、宙に浮いていた肉塊は重い水音を立てて、血溜まりの地面へと落下した。多量の返り血を浴びた瀬能はポケットから飴を取り出し、それを口に含む。涼し気な顔には罪悪感など微塵も無い。
「ん?」
ふと、首を後方にかしげると、それまで遠い喧騒の漏れ声しか届かなかった裏路地に、何やら慌ただしい足音が近づき始めた。
「もしかして、おかわり?」
興味を惹かれた瀬能はバリボリと飴を噛み砕いてから、通りに向かって歩き出した。裏路地から顔を出した直後、一際強い光が彼の顔へと浴びせられる。
「――こんな夜中に子供一人で何をしている?」
「っ、なんだよ急に、眩しいじゃないか」
瀬能に声を掛けたのは、白いヘルメットと防弾衣に身を包んだ警官風の若い男。両手にはめた手袋には幾何学模様に剣をあしらったデザインが施されており、それが彼の所属――公安特務執行部の痕印者であることを示していた――。