第四話 痕印者 (4)
「ずずず……さて、それじゃボチボチ本題に入ろうかしらね」
湯気立ち昇る珈琲を一口啜った後、真田はこんもりと盛り上がった丸机の上に肘を付いて秀彰を見ながら、口を開いた。
「兎にも角にも相手の事情が分からなきゃ、何から説明して良いのか分かったもんじゃない。という訳でだ、一年二組の赤坂秀彰クン。まずはアンタが痕印者という存在をどこで知ったのか、その経緯から詳しく説明して貰おうか」
「分かりました」
秀彰は軽く頷いた後、真田の要求通りに事情説明を始めた。
先月初めに執り行われた入学式の後、友人と二人で立ち寄ったファーストフード店で、他校の不良と喧嘩騒ぎを起こしたこと。その後、突然乱入してきたパーカー男が不可思議な能力を用いて、店の中を滅茶苦茶に荒らし回ったこと。そして、その男が自らを『痕印者』と称したことまで。
話し終えると、何故か真田は肩を震わせつつ、込み上げてくる笑いを堪えるように口元に手を当てていた。
「く、くく、そりゃ災難だったわねぇ」
「……何がおかしいんですか?」
自分の痕印者としての生い立ちごと馬鹿にされたような気分になった秀彰は、不機嫌さを隠さず聞き返した。すると彼女の顔からふっと笑みが消え、どこか冷めたような視線になる。
「何がって、そのパーカー男の言動全てがよ。くだらない選民思想に心酔し、自らの特異性すらあけすけに放言しちまうなんて、迂闊にも程があるっての。馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうわ」
「その油断と慢心のお陰で、こっちも何とか対処出来ましたけどね」
「対処……って、アンタまさか生身でその痕印者とやりあったっての!?」
無言で頷いた秀彰に対し、真田は大きく溜め息を吐いてから、ジト目で睨む。
「はー、あっきれた。やっぱ赤坂って早死するタイプの馬鹿だわ」
「よく言われますよ」
眉間に皺を寄せた秀彰が真田を睨み返す。褒められるとは思わずとも、こうまでなじられるのも彼にとって予想外だったらしい。仮にも教師なら、もう少しオブラートに包んだ言い方をしてもらいたいと、鋭い眼光を煌めかせて反抗した。
「んで、その後は? 他の痕印者との接触は無かったの?」
「えぇ、暫くしたら刑事のような格好の男がやってきてあれこれ訊かれましたけど、それ以後は他の痕印者らしき人物とも遭遇は――」
「ちょっと待った、ストップ、ストーーップ!」
突然、真田が両手の平を突き出して、秀彰の発言を制した。話の骨を折るなよと言いたい気持ちをグッと堪えつつ、その真意を尋ねる秀彰。
「なんですか、突然」
「その刑事っぽい格好をした男ってヤツの特徴、詳しく訊かせてくれる?」
やけに熱の篭った眼差しを向けられ、続きを催促された秀彰は、そのただならぬ様子に圧倒されながらも、言われた通り記憶を掘り起こしてみる。
「黒いスーツの上からトレンチコートを羽織った男です。歳は三十代か、もう少し前か。オールバックと額に傷のある威圧的な顔付きで、始終煙草を吹かしながら周囲の状況を観察していました……って、どうしたんです?」
珍しく、真田がポカンと大口を開いた間抜け面で見ていたので、秀彰はつい気になって聞いてみた。
「いや、よく特徴覚えてんな~って感心しちゃっただけよ。赤坂って記憶力良いのね、素行不良のくせに」
「素行不良は関係ないでしょう」
悪い悪い、とまるで誠意の感じられない真田の謝り方に、秀彰は呆れながらも言及はしなかった。
「それでその男がどうかしたんですか?」
「今アンタの言った特徴にさ、まぁ見事に合致する知り合いが一人居てね。名前は真道龍一って言うんだけどさ。公安特務執行部に所属する冴えない男よ」
「公安……? 執行部……?」
聞きなれない組織名に困惑する秀彰を見て、真田は柔和な笑みを浮かべた。どうやら彼の反応は期待通りのものらしい。
「公安特務執行部――通称”特行”とは政府管轄の下で秘密裏に編成された特殊犯罪対策組織の呼称よ。平たく言えば、痕印者によって引き起こされた犯罪を取り締まる機関なの」
「初耳ですよ。そんな組織が存在していたなんて」
「社会的には伏せられているからね。もとい、痕印者自体がこの世の中じゃ秘匿事項だし」
さらりと真田が重大な事実を口にする。それは、これまで幾度と無く秀彰の頭の中に疑念となって沸き出てきた事柄だった。何故、他の誰も痕印者の存在を認識していないのか。その答えを目の前の女教師は知り得ているらしい。
昂る好奇心に突き動かされるまま、秀彰はさらなる質問を飛ばしていた。
「公表しないのは、痕印者に対する偏見や迫害が発生するからですか?」
「それもあるし、何より特行側としても動きづらくなるからね。悲しいことに、この世では性善説よりも性悪説を信じて行動した方が生きやすいっていうかさ。例えばふとしたきっかけで便利な力を手に入れた人間が、その後も真っ当な人生を送る保証なんてどこにもないじゃない?」
真田の喩え話を聞いて、秀彰の胸の奥がチクリと傷む。今朝方、校門まで無差別に能力行使しようとした自分と重なり合ったせいだ。事情を知らない信吾にも戒められたが、やはりあれは浅はかな行為だったと自分を戒めた。
「じゃあ俺が接触したその真道という男も痕印者なんですか?」
「えぇそう。というよりも、特行の殆どが痕印者で構成されていると思ってもらった方が良いかもしれないわね」
「……真田センセも?」
二重の疑惑を含めて訊いてみるが、真田は至極あっさりと答えた。
「そ。アタシも痕印者よ。前は真道と同じ部署……つまりは特行に居たんだけど、今は退職して現場から離れているわ。赤坂が痕印者だと確信したのも、当時の経験が活きた証ってヤツ」
「なるほど」
どうして特行を辞めたのか、その理由についても気になったが訊かない事にした。込み入った事情にはなるべく首を突っ込みたくはない。
「どう? ここまでの話、理解出来たかしら?」
「えぇ、何とか」
脳内でメモを取りながら、秀彰は今回仕入れた新情報を反芻する。痕印者の秘匿事情、特行の役割、そして真道龍一という俺が知らぬ間に接触していた二人目の痕印者の存在。まだまだ噛み砕けてはいないが、未知の大海だった見識が僅かに輪郭を得た気がした。
「なら、本日の課外授業はここまでにしましょうか。外も随分暮れちゃったし、さっさと帰って来週の中間考査に向けた勉強もしておきなさい。アタシの教科で赤点なんて取ったらタダじゃおかないから」
「今は試験勉強なんて気分じゃ――」
それよりもっともっと痕印についての情報を知りたい。そんな態度が顔に出ていたのか、真田は秀彰を窘めるような口調で続けた。
「焦るなよ、少年。物足りないのは分かるけど、今はもっと日常を大切にすべきだ。どうせその内、闘争の渦中に身を置くことになるんだろうからさ」
「……はい」
「うむ、良い返事だ。んじゃ、もう外は暗いから気をつけて帰りなよ」
秀彰が頷くと、真田は使用済みのマグカップ二つを御盆に乗せ、流し場まで運び始めた。室内には水道水の流れる音が響く中、秀彰は手提げ鞄を拾い、そのまま退室しようと立ち上がる。
だが――。
「真田センセ――センセにとって林教諭とは、どんな存在だったんですか?」
「…………」
込み入った事情には立ち入らまいと自重したばかりだというのに、つい、余計な問い掛けをしてしまう。食器を洗う水音にかき消されたなら、それはそれでいいとも思った。らしくもない、軽率な振る舞いであることはすぐに自覚した。
キュッと蛇口の捻る音が鳴り、水音が止む。タオルで手を拭き、真田は秀彰の方へゆっくりと振り向いた。
「……少しだけ、アタシの愚痴でも聞いてくれるかい?」
ボソリと、弱々しい声色で呟いた真田に、秀彰は無言で頷いて見せた。
「林の婆さん――林先生はさ、高校時代からのアタシの恩師なんだ。 色々あって特行辞めてから、偶然この学校で同じ教師として再会してさ、 半人前だったアタシをあの人は快く迎えくれて、色んな事を教わったんだ。そりゃ普段は怒りっぽくて、口も悪けりゃイビリも激しい鬼婆だったけど、誰よりも学校のことを思ってる、アタシにとっちゃ教師の教師みたいな人ね」
自然と真田の視線が上向いていく。染みだらけの天井を見上げたまま、彼女はポツリポツリと思いを語り続けた。
「それがある日、何の前触れも無くパーっと居なくなっちまって。空虚って意味が、その時初めて分かったよ。あ~喪失感ってこういう気分なんだ~って、空っぽの心で納得した。けど、そうやって停滞してたのはアタシだけ。三日も経てば、他の教師達は普通に受け入れちゃっててさ。それがオトナの正しい姿だってのは、馬鹿なアタシにも分かるさ。分かるけど……」
はぁぁ、と真田が特大の溜め息を吐く。
「いくら嫌われてたからって、ついこの間までは同僚であり仲間だったろ? なのに……少しの恩も、感謝の言葉すら出てこないなんて……っ」
しばらくの間、真田と真田との間に沈黙の時間が流れる。いつの間にか、真田の一つ結びの髪は解けていた。
長く垂れた横髪が頬を隠し、そこにある表情は読み取れない。秀彰はただ、目の前の教師が落ち着くのを待った。
「アタシの望みは唯一つ。犯人への復讐だけ。もう既に特行には事件の調査は依頼しているけど、その後の状況はどうにも芳しくないみたい。恐らく、実行犯の背後には厄介な組織が控えているんでしょう。けど――」
真田は迷いを振り払うように、首を強く横に振った。美しい長髪が靡き、あらわになった素顔の奥にある双眸は、少しだけ赤く充血していた。
「だからって、アタシは退かないし、諦めない。相手がどんなヤツだろうが、絶対に斃してやる。どんな手を使ってでも、必ず……!」
「なら俺にも、林教諭を殺した犯人探しを手伝わせてください」
真田は充血した瞳を隠そうともせず、睨むように秀彰の顔を見た。鬼気迫った表情だが不思議と恐怖は感じない。故に秀彰も物怖じせず、真っ向から彼女の思いと対峙する。
「ハァ、それで同情してるつもり? 半人前が出しゃばっていい事件じゃないのよ」
「同情なんてこれっぽっちもしてませんし、自分が半人前以下なのも自覚してます。でも、そんな俺から見ても今の真田センセは危うい」
ピクリと真田の眉が釣り上がり、怒りの反応を示す。それでも秀彰は言葉を止めない。
「危うい、ですって? どの口がそんな生意気なコト――!!」
「林教諭の無念を晴らすのなら、ましてや確実に復讐を成し遂げる気概があるのなら、それこそ感情で行動を左右されては駄目ですよ。使える駒はなんだって使う、それくらいの非情さも必要です。それがセンセに出来ますか?」
無言の重圧の中、秀彰と真田は暫し睨み合った。時計の針の音すら無い室内で、微かな呼吸音だけが行き交う。
「……ふん、ならそうさせてもらうわ。訓練すれば弾除けくらいにはなるでしょうし、飽きたらすぐ特行に放り捨ててやればいいだけ、そうよね?」
不意打ち気味にドンと肩を押され、秀彰の身体が少しよろめいた。フラフラとした足取りのまま、もう一度真田の顔を見ると、頬を膨らませ、鼻先まで赤くしていて、思わず苦笑してしまう。
「……何よ、文句あるの?」
「まさか」
即座に否定する秀彰。不覚にも可愛いと思ったなんてことは、口が裂けても言わないだろう。
「ここまで互いの利益が明確なら、なおさら好都合ですよ。俺から見れば痕印者と戦うための訓練が出来て、あわよくば相手も準備してもらえる。素晴らしい、最高の条件じゃないですか。これで一体、何が不満だって言うんです?」
「赤坂ってホンット……馬鹿なのね」
そう言うと、真田はクシュンとくしゃみをした。これまたキャラに似つかわしくない、可愛い声で。
「勘違いしないでください。俺は俺の利益のために動くんです。本音を言えば、俺は林教諭の死に対して特別な感情を持っちゃいない。自分が痕印者として成長すればそれでいい。それ以外の理由は全部建前だ」
「…………」
「真田センセ――俺だって、そんな人間ですよ」
壁に掛けてあったカーディガンを何故か頭の上から被った真田は、その隙間から真剣な瞳で秀彰を覗いている。
「それじゃ、また来ます」
秀彰はトントンと靴先で床を叩いてから、宿直室を出ようとした。が、やはり立て付けの悪い扉は中々開かず、ガタガタとやかましい音を立てるばかりだ。
「こら、乱暴にするな。壊しても修理費出ないから自腹なんだぞ?」
「え……マジですか」
「経験則に基づく確かな情報よ」
そう言って真田は慣れた手つきで扉を開ける。礼を言おうと振り返る秀彰だが、そっぽを向かれたまま視線が合わない。
(ま、いいか。さっさと帰ってしまおう)
首をかしげながら、秀彰が廊下へ一歩踏み出した時だった。外気からひゅるりと風が走ったと思いきや、彼の背後から風の音にかき消されそうな声量で呟き声が聞こえる。
「……ありがと」
秀彰は振り向かず、ただ春の風の悪戯だと思うことにした――。