第四話 痕印者 (1)
所々が黒ずんだ年季入りの木床を踏みしめる度、ギィコギコと頼りない音が反響する。木造校舎特有のニオイは不快とまではいかないにしても、やはり多少は鼻を付くものだ。これを嫌う生徒が多いというのは、青春に疎い秀彰にも自ずと理解できた。
旧校舎一階廊下の最東端。生徒手帳付属の校内地図によれば、目的の場所はこの辺りにあるらしい。文芸部に書道部、手芸部に軽音楽部といった文化系の部室をいくつか通り過ぎた先、一層古ぼけた字で『宿直室』と記された部屋を見つけた。待ち合わせ場所はここで間違いないはずだ。
煩い心拍音を深呼吸で整えてから、秀彰は宿直室の扉をコンコンと叩く。
「真田教諭はいらっしゃいますか。一年二組の赤坂です」
「ど~ぞ~」
すぐに室内から間延びした応答が返ってくる。真田の声だ。
「失礼します」
一拍置いて、秀彰は老朽化した取っ手に手を掛けた。だが、立て付けが悪いせいか中々開かない。ガタガタと大きな音を立てつつ何とかこじ開けると、敷居を跨いで宿直室の中へと入った。
(思ったよりも清潔に保たれているな)
外観のオンボロ加減とは裏腹に、内観の様子は生活感の溢れる小ぢんまりとした部屋という印象だ。六畳一間の中央にはレトロな装いの丸机が置いてあり、その上には積み上げられたプリントの束とティーカップが並んでいる。宿直制度という現代では珍しい制度が続けられているのも納得の空間だ。
しかし、秀彰がいくら見渡せど肝心の部屋主の姿が見当たらない。
「……真田教諭?」
再度名前を呼んでみるが、今度は返事がない。玄関には真田が履いていたと思しき靴があったので、逃げた訳ではなさそうだ。奥で来客用の茶でも用意しているのか。仕方なく秀彰は上履きを脱ぎ、無許可で畳に上がろうとした。
――その時だった。
「ぐっ……!?」
死角から伸びてきた手が秀彰の腕を掴み上げ、そのまま畳の上に押し倒そうと背中越しに体重を掛ける。とっさに逃れようともがいてみるも、その動きすら相手の予想の範疇だったようだ。ダダンと地団駄を踏んだ拍子に足元をすくわれ、秀彰の身体は前のめりに半回転した。
「ぐ、ぉっっ!?」
一瞬にして秀彰の視界が天井から床へと急旋回する。天地が逆さまに流れる景色を目で追う内に秀彰の顔は畳の上へと容赦なく叩きつけられた。その衝撃で丸机の上に積み上げられていたプリントが宙を舞い、バサバサと散らばり落ちる音が遠く聞こえる。鼻頭をしたたかに打ち付け、秀彰の鼻孔にじわりと嗅ぎ慣れた鉄の臭いが広がる。それでも必死に抗って上体を起こそうと試みるも、既に相手は秀彰の肘関節を極めに掛かっており、絶対的な劣勢を覆すことは出来なかった。
「く…っ、そ…っっ!!」
「やめときなよ。動けば動くだけ苦痛が強くなるだけだからね」
秀彰の頭上から冷徹な声が咎めた。普段の授業で聞いているような感情豊かな声とは程遠い、無感動な声質だ。
「真田、教諭…っ!!」
「言っとくけど、痕印能力でどうこうしようとは考えないことね。少しでも怪しい気配がしたら、アンタの生命は無いわ」
食堂での冗談めかしたモノとは違う、実現性を伴った脅迫。額から滴る脂汗が鼻血と混じり合い、秀彰は言い知れぬ不快感を覚える。
「く……ぅっ」
「そう、大人しくしてればこの尋問だって早く終わるわ。物分かりの良いヤツは嫌いじゃないから」
そう言いつつも、真田は腕に掛けた力を緩めない。その気になれば腕だけでなく、首すらへし折ろうとする凄みが伝わってくる。あくまで秀彰と対等な関係を結ぶつもりはないようだ。
「単刀直入に訊くわ、赤坂ぁ。アンタが林の婆さんを殺ったのか?」
「な……なんのことだ?」
唐突に意外な人物の名前が出たので、秀彰はつい反射的に訊き返してしまった。しかし、それがどうやら真田の癇に障ったらしい。
「いいから答えろ!」
「う、ぐ…ぐぐ…っっ!!」
極められた肘関節へさらに力が加えられ、秀彰の骨がギシギシと軋みを上げる。あまりの苦痛に秀彰はただ呻くことしか出来ない。
(なんなんだこの女…っ、ただの女教師じゃねぇ)
腕力もそうだが、一瞬で相手を無力化する技術は紛れもなく訓練されたモノだ。初戦喧嘩慣れしただけの素人である秀彰では歯も立たないほどに、強い。
「な、何のことだっ……お、俺、じゃないっっ! ……ぐ、ぐうううううっっ!!」
「しらばっくれても無駄よ。アンタが今日、この学校内で能力を使った事は分かってるんだ。無関係の一般人を殺して更なる愉悦に浸ろうとしたのか、それとも元特行のアタシの生命を狙っていたのか。どっちなの、答えなさい!」
顔は見えずとも、相手が烈火の如き怒りに苛まれているのは明白だった。秀彰は薄れゆく意識を何とか繋ぎ止め、思考を行えるだけの胆力を振り絞る。
「と、トッコーってなんだよ、俺は何も知らない……っ、俺はただ、能力の使い方を練習していて――」
激痛の中で、耳慣れない単語が思考の片隅に引っかかった。トッコー…? だが、今はその意味を考える余裕などない。
「あんなに人の多い場所で能力の練習だぁ? ふざけた嘘を吐くんじゃない!」
「ぐぶっっ!?」
浮かせた踵で思い切りふくらはぎを踏みつけられ、秀彰の表情がさらに歪む。しかし、それは痛みのせいだけではない。初めから自分を犯人だと決めつけた理不尽な詰問に、彼の心に沸々と怒りが込み上げてくるのだ。
「ふざけてんのはどっちだ、こんなの、尋問じゃないだろ…っ…!」
「なんだって構わないわ。残念ながらアタシにゃ精神感応の能力はないからね。アンタの証言がホントかどうかなんて分からないし、分かるつもりもない。要はアンタが罪を認めて謝罪すればいいだけのことだ」
「な……に……??」
冤罪だろうがお構いなしという真田の態度に、秀彰は愕然とさせられた。多少手は早いとはいえ、まともな教職者だと思っていた人に、このような言葉を浴びせかけられるとは。
「言っとくけど、アタシは相手が生徒だろうが容赦はしない。素直に罪を認め、白状するまでここから帰さないからね……くく」
「…………」
頭上から嗜虐的なせせら笑いが聞こえる。真田の言う通り、確かに秀彰が校内で紛らわしい行為をしたのは事実だ。そのせいで恩師を殺した犯人扱いされることも、不本意だが妥当な判断と言えるだろう。
しかし、それでも秀彰には一つだけ――どうにも容認出来ないことがある。臨界点を超えた怒りは恐怖や苦痛を押し殺し、腹底から沸き上がる反骨心をこの上なく高ぶらせた。
「いい加減にしろよ、テメェ」
「あぁ? ……今、なんて言った?」
真田の声色が低くなるが、秀彰は構わず大声で叫び続けた。
「アンタの正体がなんだろうが、んなコト俺にはどうだっていい。殺したきゃさっさと殺せよ。それで気が晴れるならそうしろ。けどな、それでも俺にとっちゃアンタはなぁ、教師なんだよ!」
「……っ、だからっ、何だってのよっ!!」
ヒステリックな叫びとともに、締め上げられた腕が一層キツく締まる。だが、その程度では秀彰の口撃は止められなかった。
「教師だったらっ! 生徒が嘘言ってるかどうかなんて、分かるだろうがっ! 能力なんてモンに頼らずともっ! それとも……それとも、俺は――」
不意に秀彰は唇を噛み、言い淀む。誰にも見せたことのない、弱い自分をさらけ出すのに一瞬だけ躊躇したからだ。
「そんなに、信用出来ない生徒なのか……?」
畳に頬を押し付けながら、秀彰は掠れた声で慟哭した。冷静ではないことも、それが単なる感情論でしかないことも内心では分かっていた。溜め込んでいた鬱憤と塞ぎこんでいた感情を吐き出したいが為に、真田を体よく利用しただけだと。
その言葉が聞こえた瞬間、秀彰の背中を押さえつけていた真田の力が、ふっと抜けるのが分かった。
「ぐ、う…ぅ……っ…っ」
ハッとしたように、真田が小さく息を呑む音が聞こえる。それまで感じていた殺気にも似た圧力が霧散し、代わりに困惑したような、動揺したような気配が伝わってきた。
(あぁクソ……何らしくもねぇコト口走ってんだ、俺は)
内面の弱さを吐露したことを後悔しつつも、秀彰は何だか妙にすっきりとした気分になっていた。恩人殺しという汚名を晴らせないままというのは心残りだが、ここで美人の女教師に殺されるというのも中々悪くない最期ではある。
「……赤坂ぁ」
聞こえてきたのは、先ほどまでの冷徹な声とは似ても似つかない、か弱い、まるで迷子になった子供のような声だった――。