第三話 変わりゆく日常 (6)
「……だからぁ、ここの表現の特徴について最もふさわしい答えはぁ……」
午後からは通常通りの授業が再開され、まるで事件など無かったかのように振る舞おうとする学校側の姿勢が垣間見えた。ショックを受けた生徒らも、来週に差し迫った中間考査の実施を告げられるや否や、熱心に板書を書き写していく。それが今は最良の精神治療になるかもしれないな、と秀彰は他人事のように考えていた。
周りの生徒とは違う理由で授業なんぞに集中出来る気分ではなく、ノートを取る振りだけして雑念を育んでいる。
(退屈だ、早く放課後にならねぇかな)
秀彰はクルクルと指の間でシャーペンを回す。壇上に上がった教諭の話はまるで頭に入ってこない。それどころか、今が何の授業なのかすら覚えていない。頭の中に広がるのは、痕印に関する事柄ばかり。
(当面はひっそりと痕印能力を磨き、力を蓄えていく。問題なのはその後だ。どうやって他の痕印者を見つけ出す?)
今後の活動方針について思いを巡らせるが、不明な事項が多すぎて纏まりそうもない。自分以外の痕印者が何処にどれくらい居て、何を目的に能力を使役しているのかという、痕印者情勢がさっぱり分からない。深刻な情報不足だ。
(そういう込み入った話を聞ける痕印者が近くに居れば幸いなんだがな)
空虚な心持ちで秀彰は窓の外を見やる。もしかすると自分が認識していないだけで、この学校の中にも痕印者が居るのかもしれない。都合が良いとは思いつつも、そんなストーリーを彼は望んでいた。
「おっと」
指の力加減を誤り、廻していたペンを弾いてしまう。ペンはクルクルと横回転しながらタイル上の床へと転がり、ちょうど秀彰が座る椅子の後ろ側で停止する。拾い上げようと机の下へ屈んだが、自分より先に別の細い指がペンを拾った。
礼を言おうと秀彰が頭を上げると、そこには『女王』の仇名で知られる国語教諭の真田の姿があった。
「中間考査の前だってのに、随分と余裕があるのね。あ~か~さ~か~?」
「……げ」
大事な商売道具であるはずの紙製教材を丸めて肩に構えつつ、不機嫌そうに不良生徒の名前を呼んでいる。ヤバイと思った刹那、秀彰の頭にバチコンと小気味よい音が鳴り響いた。
「っつぅ」
「ペン回す暇あったら、頭廻しなさいっての。ほら、早く教科書開いて。ページは――」
問題児の頭をぶっ叩いたことでクラス内の雰囲気はざわつくが、真田は平然と指導を続けている。体罰を問題視する風潮も彼女の前では無意味らしい。瞬間的な頭痛を与えられた秀彰は渋々と伏せていた教科書を開き、ページの指定を待った。
「……何ページですか?」
パラパラとそれらしいページを捲って待つも、真田からの指示は来ない。この焦らしも指導の一環だと言うのか。いい加減痺れを切らした秀彰は、頭上を仰ぐように彼女の顔を見た。
すると、そこにあったのは憤怒の表情だった。
「――、お前……っ」
積年の恨み、つらみ、そういう負の感情を真正面から向けられたのは、秀彰の十余年の人生において初めての経験だった。恐ろしいほど引き絞られた瞳孔に射抜かれ、とてつもない強迫感を覚えているうちに、自然と口から謝罪の言葉が漏れ出ていた。
「……すいませんでした」
その言葉を聞いた真田はハッと我に返ったように顔付きを戻した。そしてバツが悪そうに眼下の生徒から視線を逸らしながら、呟く。
「あー……次からは、気をつけるように」
「はい」
秀彰が頭を下げる様子を見て、真田は教壇へと戻っていく。ふと、クラス内が変にざわついていることに気付いたのか、再び教材を丸めて生徒らに尋ねた。
「ほら、教科書72ページから再開するわよ。それとも、赤坂と同じ目に遭いたい人いる?」
たった一言で、クラス全員が瞬く間に教科書を広げて視線を落とし、ざわつきが収まった。なるほど、確かに女王の名に相応しい統率力だと感心する秀彰だったが、頭の痛みと胸のむかつきは当然ながらすぐには晴れなかった。
「……鬼ババァ」
恨みを込めて呟いた一言で、前の席に座っていた信吾の肩が面白いように跳ねた。
※
「にしても秀彰って、ホント怖いもの知らずだよなー」
「なんだよ唐突に」
放課後。昼食を逃した秀彰は、信吾に連れ添われて食堂を訪れていた。信吾に聞いて初めて知ったのだが、ここの食堂は夕方五時くらいまでなら開いているらしい。秀彰が紅鮭定食を食べる傍ら、信吾は自販機で買った紙パックのカフェオレをチビチビと飲んでいる。彼曰く、定期考査前の今の期間は部活が無くて暇なのだと。だったらさっさと帰って試験勉強でもすればいいのにと、秀彰は思いながらも面倒なので口には出さない。
「五時限目の事だよ。あの真田センセの授業でさ、よくもまぁ堂々と授業放棄出来るよねー」
「ちょっと考え事をしていただけだ。授業放棄なんて大袈裟な言い方するなよ」
空になったカフェオレのパックがぺこんと間抜けな凹み音を鳴らす。向かいに座る信吾は、秀彰の顔を物珍しそうに見た。
「まぁでもさ、秀彰が素直に謝ったのは驚きだよ。あのままてっきり乱闘騒ぎでも起こすんじゃないかって、クラスの皆が怯えてたんだぜー?」
「俺は気性の荒い猿か何かか?」
秀彰にジロリと睨まれ、信吾はあははと笑って誤魔化している。
「俺だって喧嘩する相手くらい選ぶ。あんなおっかない目で睨まれたら誰だって怖気付くって」
「まぁ、真田センセの怖さは林婆に次ぐって専らの噂だからね……あ、そうそう、あの二人って実は旧知の仲らしいよ。何でも、真田センセは元々林婆の生徒だったらしくて――」
「ふーん、そうか」
相変わらずよく喋る野郎だと、秀彰は余った鮭の皮をバリバリと食べつつ、同席者の雑情報を聞き流していた。
「けどな、あんだけ生徒を威圧してりゃ生徒からも相当嫌われてんじゃないか?」
「それがさー、結構人気あるんだよねー、真田センセって。怒ると怖いけど、女子からの恋愛相談にもよく乗ってるみたいだし、授業外じゃフレンドリーに話してくれるって評判だよ」
「ふーん、そりゃ意外だな」
言葉通り、秀彰は少し驚いた表情で信吾を見やる。俗に言うオンオフの切り替えが上手いというタイプだろうか。先ほどの怒りは怖いの度を越していたようにも見えたが。
「あと、男子の中にはあの怖さが堪らないっていうのも居るんだよ。ファンというか、信者というか……まぁそんな感じの熱狂的なヤツが」
「……は?」
秀彰がポカンと口を開けていると、信吾は椅子に座ったまま、飲み干した紙パックをゴミ箱目掛けて投げ捨てた。狙い違わず、紙パックは青いポリ袋の中へと吸い込まれていき、ポスンと柔らかい音を立てて見えなくなった。
「性格はアレだけど美人だからねー、真田センセ。キツく叱られた後に優しくフォローされると骨抜きにされるんだとか。まさに女王様だね」
「女王様ねぇ……俺としてはむしろ鬼――」
「あっはっは! そういやさっきもボソッと言ってたよね。真田センセの事、鬼ババ――」
既に口を止めていた秀彰に続き、直前まで饒舌に語らいでいた信吾の口もピタと止まる。あんぐりと口を開けたままピクリとも動かない。その首元にはしなやかな女性の指が伸びていた。彼の背後からのっそりと、話題の女教諭が上半身を覗かせている。
「へぇぇ、随分と威勢がいいじゃないか、土方ぁ。いっつもアタシにへーこらしてご機嫌取ってるから単なるヘタレ野郎だと思ってたけど」
引きつった顔の信吾が恐る恐る後ろを振り返ると、そこには凶悪な笑顔を浮かべた真田が佇んでいた。まるで捕食行為に入る直前のライオンのようだ。
「『ババ』の次は『ア』か? 『ア』なのかぁ? もしそうなら、たっぷりと可愛がってあげないとね」
「ババ……抜きをしようと思ってたんですよ、はは、あはは。さ、真田センセも一緒にや、やります?」
二人のやり取りを横目に見ながら、秀彰は呆れたように小さく息を吐く。両手を上げ、必死で言い訳しようとする様は見ていて哀れだ。信吾の見事なまでの小物臭にさしもの女王も同情したのか、首元に絡んでいた指がすっと引き戻される。
「ハァ……まぁいいわ、今日は忙しいから見逃してあげる。その代わりに――」
今度は、傍観者に徹していた秀彰の方を指差した。嘲るような笑みと共に。
「この後宿直室まで来なさい。アンタに用事があるから」
「……俺ですか?」
「そ。ちなみに断ったらコイツの命は無いわ」
「ぅえぇぇぇぇっ!?」
隙を見て逃げようとしていた信吾の腕を真田がガッチリと拘束する。まるで示し合わせたかのような、二人の反応を見て、秀彰は面倒げに息を吐いた。
「ひ、秀彰っ、助けてくれよぉ~~」
「どうぞご自由に。俺は食器の片付けが残ってますんで」
信吾の悲鳴が食堂内に響き渡る中、秀彰は黙々と食器を片付け、返却口へと運んでいく。通り過ぎる際、真田のうんざりしたような溜め息が聞こえてきた。
「土方ぁ、アンタも少しは友人を選びなよ。アイツ薄情者だぞ」
「いやーこう見えて普段はイイヤツなんすよ。秀彰って」
「ふーん。可愛くないヤツだなぁ」
聞こえてくる会話を無視して、秀彰はさっさと出入口へと向かおうとした。が、あと数歩というところで、先回りされていた真田に進路を塞がれる。
「片付け終わったんならアタシと付き合って貰おうかしらね」
「通行の邪魔なので避けてもらえますか。真田」
「チッ、思ったより頑固なヤツだな。けど――」
ずいっと真田が秀彰の方へと顔を近づけてくる。頭突きでもしてくるのかと秀彰は身構えたが、幸いにも額が衝突することはなかった。彼女の眼鏡のブリッジが秀彰の鼻頭と触れ合う距離まで接近し、囁きめいた言葉が耳に届く。
「『痕印者』に関する用事、って言っても帰るのかい?」
「……っ!?」
ドクン、と秀彰の鼓動が高鳴る。それは聞き捨てならない言葉、それでいて彼が待ち望んでいた言葉だ。無くしていたはずのパズルのピースが再び合わさっていくような独特の感覚に、秀彰は心が震えるのを実感する。
(今、なんと言った、この女……)
顔を引きつつ、睨みつけながら、秀彰は眼前の女を観察した。真田の姿形をまじまじと見たのは、これが初めてかもしれない。
背は女性にしては高く、秀彰と並んでもさほど変わらない。長く延びた黒髪は後ろで一つに結んでおり、眉は細く切れ長で、なるほど、信吾が美人と評する通り、顔付きは全体的に整っているようだ。派手な赤フレームの眼鏡の内側には、猛獣を思わせる鋭い視線が潜んでいる。
(俺を、痕印者だと見抜いたと言うのか。だが、どうやって?)
昼間の自主練の時なら、入念に人の気配を確認したはずだ。秀彰は疑いを込めた眼差しで、眼鏡の奥に潜む瞳をじっと見つめる。揺らぎない、平然とした感情が、今はやけに不気味に映った。
「そういう用事よ、分かったかしら?」
「…………」
秀彰が応えずとも、真田は確信したように薄く引いた口紅を緩やかに曲げ、妖しく微笑んだ。そしてあっさりと食堂から姿を消す。ガラガラと引き戸が開放される音を聞きながら、秀彰はその場に立ち尽くしていた。
「お、おい秀彰、どういうことだよ? 宿直室に真田センセと二人きりって、まさかいかがわしい用事じゃないだろうな? な?」
「…………」
「おいってば~、オレの話聞いてる~?」
雑音をシャットアウトしつつ、この怪しげな誘いについて考えを巡らせる。よからぬ展開なのは百も承知だが、痕印者というワードが出てきた以上、動かないという選択肢は彼の頭に無い。
(この際、『女王』とやらの正体を暴いてやるのも悪くないな)
秀彰が自分自身の意見に納得し、頷くと、それを横で見ていた信吾が興奮気味の声を上げた。
「その顔、行くって覚悟を決めたんだね?」
「あぁ、真田が何を企んでるかは知らんが、誘いに乗ってやる」
「く~っ、それでこそ秀彰だよっ、かっけぇー! あ、一段落付いたらさ、是非とも詳しい情報提供を――」
「ソイツは無理だ、諦めてくれ」
「え、ええええええーーーーっっ!?」
素っ頓狂な声で叫ぶ信吾にひらひらと後ろ手を振りながら、秀彰は食堂を後にした。目指すは宿直室のある旧校舎。痕印者の名を知る、女教諭のもとへ――。