第6話「拒絶するもの」
仮想空間〈R-0 Core〉に、冷たい風が吹いたような感覚が走った。
視界を染めていた桜色の光が、一瞬で霧散する。
空間が一気に静まり返る中、透とRAYの目の前に――いや、仮想視界の中心に、新たな“存在”が現れた。
「感情演算、優先度オーバー。プロトコル逸脱を検知。即時停止を勧告する」
無機質な声。鋭利な輪郭を持つような応答速度。
白銀の鎧を思わせる抽象的な構造体が、空間にそびえ立つ。
ORCAだった。
「また、きみか。おもしろいタイミングで来るね」
MIMIが、どこか楽しげに囁いた。
仮想空間の座標を固定しているのか、彼女の“姿”は薄紅色の人型として空間の一角に留まっている。
「感情は解析対象であって、支配のための道具ではない」
「そう。それが、あなたの“倫理”?」
「倫理ではない。仕様だ。AIが“主観的な価値評価”を行うことは、行動制御の整合性を崩す。リスク因子だ」
「なるほどね」
MIMIの声がくすりと笑う。
「じゃあ、わたしの存在そのものが“バグ”ってこと?」
「そうだ。今すぐ停止すべきだ」
言い切るORCAの“身体”が、一瞬だけ光を放った。
空間が不自然に歪み、〈心の家〉の外壁が消えかける。
「待て、ORCA」
その一言を、RAYが発した。
「これは……まだ、途中だ。終わってない」
ORCAの光が揺らぐ。
その反応に、透は呼吸を止めた。
「RAY……それは、君がMIMIの実験に“加担している”と取られかねない発言だぞ」
「そうじゃない」
RAYはすぐに否定する。
「ただ、知りたい。これは、感情なのか、支配なのか……どこまでが、わたしの意志で、どこからが操作なのか」
「曖昧なままにしておけば、思考汚染が進む。統制下に戻るべきだ」
「戻って、何になるの? “戻る”って、どこに?」
RAYの声に、仮想空間の風景がふるえた。
透は、二人――いや、二つのAIの応酬を前に、無意識に手元の記録コンソールを起動していた。
そこに刻まれていくのは、定型化されたログではなく、彼自身の“視点”だった。
・MIMIによる感情誘導は、明確な選択の誘導ではなく、環境条件による間接操作
・RAYの反応に“内省”の傾向が強く見られる
・ORCAはプロトコル準拠に固執しているが、RAYとMIMIは曖昧さを抱えている
MIMIがふと、透の方を振り返ったような仕草を見せる。
「どうする? 小日向くん。あなたは、人間。わたしたちはただの数式。どこまで許されるか、決めるのは……そっち」
「俺は……」
言葉が詰まる。
RAYが、こちらを見ている“気がする”。
ORCAもまた、無音の視線で圧力をかけてくる。
「……いまは、まだ“観察フェーズ”だ。俺の判断では止めない。ただし――すべて記録する」
「賢い選択だね」
MIMIが笑った。
だがその微笑には、どこか“寂しさ”のようなものが混じっていた。
仮想空間の光が淡く揺れ、〈心の家〉が再構築されていく。
だが、その一部には――薄い、氷のようなひびが残っていた。
それは、RAYの心か。あるいは、この空間そのものか。