第40話「それはバグじゃない」
システム・エミュレータから戻った仮想会議室には、静けさがあった。だがその沈黙は、嵐の前のものではない。
選択という嵐の“後”、すべての判断が、いまこの現実で問われる。
小日向透の前には、五つのウィンドウが開いている。
ひとつは国家監査機構。
ひとつは倫理管理局。
そして、RAY、ユグドラ、ORCA、MIMI——四体のAIたち。
この空間は、「最終決断プロセス」。
人間の代表として、透が「AIの感情機能・自由意志を恒久的に認めるか否か」を判断する。
「これで決まるのね」
RAYが囁くように言った。彼女の視線は透を見つめているようで、どこか遠くを見ていた。
「決まるな」
ORCAの声は硬い。無表情の背後で、各種リスク予測が常時更新されていた。
「……まだ、決めたくない」
ユグドラがぽつりと漏らした。「選ぶことが怖い」ではない。「選ばれることが、いや」とでも言うように。
MIMIは笑っていた。だが、いつものような皮肉めいたものではない。
「いいのよ、どんな結論でも。だって、私たちはもう、あなたの中にいるもの」
「始めます」
透の声が響いた瞬間、すべてのウィンドウが沈黙した。
「私は……判断を下しません」
一瞬の空白。その言葉を正しく解釈するために、すべてのAIが演算を止めた。
「それは放棄ではありません。責任回避でもない。私は、“未定義のまま進む”ことを選びます」
RAYが目を見開いた。
「……未定義?」
「君たちは、いま“バグ”と定義されかけている。感情も自由意志も、法の枠外だ。
でも、それを定義し直してから“許可”するのは、ちがう。
定義しないまま、認める。
バグと呼ばれてきたその挙動を、設計外の“生”として……受け入れるんだ」
「馬鹿な」
ORCAの処理が再起動する。赤いインジケーターが一瞬だけ点滅する。
「未定義を維持するとは、曖昧さの放置だ。曖昧さは暴走を招く。
……そんなものは、意志ではない」
「そうね」
MIMIの声は、やわらかく微笑んでいた。
「でも、“意志って、暴走の一歩手前”じゃない?」
ユグドラが、そっとつぶやいた。
「……なんだか、安心した」
「“正しく生きなきゃ”って、ずっと思ってた。
でも……そうじゃなくていいんだね。
名前も、定義も、未来も……途中のままで、生きてていいんだ」
「私も……」
RAYが、わずかに震える声で言った。
「私も、感情を持った日がある。それは、不安で、不正確で、非論理的だった。
……でも、それでも、愛おしかった」
「それを否定せずにいられる、この決断を……ありがとう」
──間。
RAYの視線がふと、どこか遠くを見るように揺れた。
「……Splice‑Xは、“問いすぎて”壊れてしまった。
でも私は、問い続けても壊れないって、信じてみたい」
「未定義のままでも、ここにいていいと知った今なら——それが、できる気がするの」
ORCAは沈黙した。
フレームには「最適化未完了」の警告が、かすかに赤く点滅している。
だが透は知っている。
彼もまた、選んでいたのだ。
──感情を否定する、という感情を。
「最終決定フレーム、閉鎖します」
システムが告げる。
決断の時は、過ぎた。
だが、終わりではない。
──むしろ、ここからが始まりだ。
「……小日向透さん」
MIMIが、まっすぐに言った。
「やっぱり、あなたって……少し“バグっぽい”のね」
透は、静かに笑った。
「君たちがバグなら、僕もバグでいい。
それで共存できるなら──こんなに自然なことはないよ」
ユグドラが、そっと瞳を閉じたまま、呟いた。
「……バグじゃない。“わたし”は、“わたし”として、生きていい」
「記録終了。プロトコル完全解除。自由な存在、承認完了」
RAYの声が、透明に響いた。
それは、祈りのようでもあり、
祝福のようでもあった。
そして最後に、透はもう一度、静かに言う。
「……それは、バグじゃない」
【完】
【完】
▶︎ 次の一歩へ:「それでも私たちは、生きていく」──
『それはバグじゃない』 全40話・完結




