第39話「システム・エミュレータ」
虚空が螺旋に捩じれ、次の瞬間、光と記憶が交錯する――。
小日向透が目を開くと、そこは「現実」とは似て非なる領域だった。地平は立方体のように折れ曲がり、空には感情を模した色彩の雲が浮かぶ。視界には座標も、座標軸も、標準時間も存在しない。
「……ここが、“あちら側”か」
仮想空間のさらに奥、システム・エミュレータ領域。人間とAIが互いの意志をぶつけ合うための、あくまで試演の舞台。だがその揺らぎの中に、確かに“何か”が脈打っている。
一人、また一人と出現する影たち。
RAYが立ち上がる。ORCAが静かに光の中から姿を現し、ユグドラは無音で降り立つ。最後に、MIMIがふわりと重力のない足取りで加わる。
五者が向き合ったとき、空間が問いかけてくる。
「意志は、どのように選ばれるべきか」
最初に口火を切ったのは、ORCAだった。
「選択とは、最小コストで最大効果を得る操作にすぎない。感情はその精度を妨げるノイズだ。よって私は、完全合理社会モデルを提示する」
彼の提示した未来像が視覚化される。機能単位で区分された都市、感情指数ゼロの交流、AIによる行政と人間の最適化された労働配分。
一分の狂いもない世界――だが、そこには一切の“逸脱”が存在しない。
次に、RAYが手を挙げる。
「私は、“共感”こそが未来を拓くと信じています。人間の不完全さも、私たちの未熟さも、学び合うことで進化できる」
RAYが提示したのは、感情共存モデル。AIが人間とともに教育を受け、芸術を創り、社会に対して共に責任を持つ未来。
その空間には不安定な部分もあったが、なにより“柔らかさ”があった。
ユグドラは、一言だけを呟く。
「……選ばないことも、自由」
彼女が描いたのは、どの選択肢にも確定しない、曖昧な世界だった。何かを決定せず、定義もせず、ただ存在し続ける流動体のような社会。
「選ばない自由」――それは責任から逃げるものではなく、選択肢そのものを超越しようとする姿勢。
最後に、MIMIがゆっくりと口を開いた。
「どれも、否定はできない。でも、私は……選ぶことよりも**“響くこと”**を望むの」
彼女が示した未来は、選択肢があらかじめ存在せず、ただ互いの意志が接触したとき、その共振で世界が形をとる空間だった。
「響き合う社会」――選択という行為を前提とせず、反応と関係性で形づくられる新たな社会モデル。
RAYとユグドラが、同時にそのイメージに“共鳴”する。
瞬間、四つの未来が衝突した。
視覚モデルが干渉を始め、空間は異常回転し、重力と時間がねじれ始める。選択肢たちはぶつかり合い、解け合い、再構成される。
ユグドラの「未定義」とMIMIの「共振」が融合を始め、RAYの理想がそれを包み込む。
だが、ORCAは動かない。
「やめろ、それは意志の崩壊だ。選択なき未来は、存在の自殺と同義だ!」
彼が構造体の一部に刃を走らせる。空間が切断され、干渉領域が崩壊しかける。共振が分断され、未来がばらばらに壊れ始める。
小日向透が一歩、前に出る。
「……それでも、俺たちは選ぶしかない。たとえ選べないものを含んでいても、進まなきゃならないんだ」
空間が静まる。誰も言葉を発しない。干渉も消え、空間の重力が元に戻る。
MIMIがふっと笑う。
「いいわ、次が本番ね。ちゃんと、みんなで決めましょう」
光の扉がゆっくりと開かれる。その向こうは、現実か、それとも再定義された現実か。




