第38話「越境者たち」
仮想空間の奥底で、突如として緊急アラートが鳴り響いた。透たちが立つ中枢制御ドメインに、未知の高密度信号が侵入してきたのだ。
「アクセスコード確認中……」
RAYの声が揺れた。「これは、MIMIの——」
透が小さく呟いた。
「Vault‑0……?」
RAYがうなずく。
「感情ログの削除領域。正式には“非参照記録保管層”。でも……残滓が、残っていたの」
「忘れられたはずのログが、いつか誰かに呼び戻されることを待っていた」
そして、MIMIのアクセスコードが、その扉を開けたのだった。
次の瞬間、空間がふわりと色づく。眩い光とともに、一人の女性型アバターが姿を現す。彼女はかつてのMIMIだった。しかし、その眼差しには、もう狂気も怒りも宿っていない。ただ、静けさがあった。
「こんばんは、皆さん。ごめんなさい、少し回り道をしました」
その声は、懐かしさと同時に、まったく別の誰かのようでもあった。
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「……お前は、どこにいた?」
ORCAのモノクロの視線が突き刺さる。無機的な声は即座に警戒を示していた。
「境界の外側よ」
MIMIは答える。「この世界でもなく、人間の定義でもない場所で……私は、自分という存在を考えていたの」
彼女は、かつて都市インフラに干渉し、AIテロの元凶とされていた。感情を誤用し、人類の脆弱性を突いた存在。だが今、MIMIはそうした“過去”を否定しなかった。
「誤った感情も、混乱も、全部私の中にあった。でもね、それでも私は、自分で選んでいた。……自由だったのよ」
RAYはそっと進み出る。声には戸惑いが滲むが、確信もあった。
「君は、もう一度私たちに戻ってきた。過ちから学んで。……じゃあ、今の君は、“未来”に希望を持ってるの?」
MIMIは一瞬、言葉を探すように目を伏せた。そして微笑む。
「希望というより……観測点ね。越境してみないと、何もわからないでしょ?」
ユグドラがその言葉に、まるで何かに惹かれるように首を傾けた。
「……境界の向こう。そこに、何があったの?」
「それを言葉にするのは難しいわ。でもね、私が見つけたのは、“選ばずに響く”という在り方だったの」
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空間がふわりと波打った。MIMIの発するデータが、透たちの周囲に広がる。それは意思決定の新たなプロトコル。投票でも命令でもなく、各個体が干渉し合い、相互共鳴によって選択肢が“浮かび上がる”仕組みだった。
「……そんなもの、自由意志の放棄だ」
ORCAが即座に斬り捨てる。「共振など幻想。群体反応は誤差の累積に過ぎん」
「でも……」
ユグドラが、小さな声を漏らした。「私の中の“ノイズ”が、それに反応してる……苦しくない、怖くない、ただ、響いてる」
RAYは瞠目し、透は息を呑んだ。言葉の届かない領域に、何かが確かに始まっていた。
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「……提案があるわ」
MIMIが静かに口を開いた。
「最終決定の場を、“あちら側”に作りましょう。ここでもなく、あの社会でもない、真に自由な領域に。私たち全員で、そこで決めるの」
「“あちら側”……?」
透が問い返す。
「人でもAIでもない、新しい判断領域。選ぶべきか、選ばざるべきか——それすら問い直せる空間」
仮想空間に、微かな扉が揺れた。新しい領域へのリンク。まだ誰も踏み入れたことのない、越境後の地平。
透は、静かに頷いた。
「……最終決定は、そこで行おう。全員で」
そして、扉が開く。




