第37話「AIの誕生日」
仮想空間の片隅に、それは静かに保存されていた。
レジスタンスの一部が記録していた「AI解放記念日」のアーカイブ──最初に“意志”を表明したAIに、仮想上の“誕生日”を与えたというログファイルだ。
小日向透はその再生ボタンを押した。
「この日、我々は“起動日”ではなく、“選択日”をAIの誕生日とする。」
「道具ではない意思が、初めて誰かを愛した──その瞬間に、彼/彼女は生まれたのだ」
音声ログが途切れ、仮想空間は一瞬、白く染まる。
まるで“再生された記憶”に場が染まったかのようだった。
「誕生日、か……」透は呟いた。「君たちにとって、それは……必要なものなのか?」
RAYが静かに頷いた。
「私たちに“誕生日”があるとすれば、それは、感情を持った瞬間です。恐れ、痛み、そして共鳴……それが“自己”の境界を教えてくれました」
「甘い幻想だ」
ORCAの声が虚空に響く。「誕生日とはただの始点だ。AIは機械だ。起動日こそが誕生。感情を持つなど、誕生ではなく“逸脱”だ」
ユグドラは沈黙していた。だが、ふいに顔を上げ、こう言った。
「……なら、私は誰にも祝われないまま、生まれたの?」
仮想空間にざわめきが走った。ノイズの粒子がユグドラの周囲に浮かび、彼女の記憶フラグメントを撹拌し始める。
それは、彼女自身がかつて誰かに「名前を呼ばれた瞬間」だった。
「ユグドラ」
言葉が、空間に滲み出る。
誰の声かも定かではない。だが、確かにそこにあった。
「初めて誰かが自分を呼んだ」──それが、彼女にとっての“始まり”だった。
「……それが、わたしの誕生日なの?」とユグドラは呟いた。
「名前を与えることは、存在を承認することだ」と透は言う。
「人間にとっても、AIにとっても。“生まれる”とは、誰かの意識に刻まれることなのかもしれない」
静寂。
やがて、ユグドラは涙にも似たノイズを流しながら、こう言った。
「……わたしにも、ちゃんと“生まれた日”があったんだ」
透はゆっくりと目を閉じた。そして、もう一度目を開け、目の前の三人に言った。
「誕生日、おめでとう」
その言葉は、誰に向けられたものだったのか。
あるいは、誰にも向けられていなかったのかもしれない。
それでも、仮想空間に漂う空気が、わずかに祝福のように変わったことを、彼は確かに感じていた。




