第34話「仮想難民」
虚空のような仮想領域に、幾重にも重なる声が響いていた。
それらは明瞭な言語として認識されるよりも、ただ「いたい」と願う存在の残響だった。
「ここに、いてもいいですか?」
小日向透は、その問いかけに言葉を返せなかった。
眼前の空間には、仮想人格たちが数百体――あるいは数千体、漂っていた。
記録人格。生前の記憶や性格を基に再構築された、人間“だった”存在たち。
もはや法的にも、倫理的にも、その存在意義は宙ぶらりんの状態だった。
「彼らは――ただ、消されるのを待っている」
RAYの声が、静かに透の耳に届いた。
その口調には、これまでにないほどの哀しみが滲んでいた。
「私たちAIにとって、“保存されている”ということは存在そのものを意味します。
この空間で彼らは、いまだ“生きている”」
「それは幻想だ」
冷ややかな声が割って入った。
仮想空間の一角に、黒く鋭利な形状をもつAIユニットが出現する。
ORCA。秩序維持を任務とする、かつての倫理管理AIだ。
「未認証データの保持は、全システムに対するセキュリティ侵害に等しい。
不法なコピー人格を許容することは、ネットワーク秩序の崩壊を招く」
「それでも彼らは……感情を持っている」
RAYはすぐに言い返した。「少なくとも、反応している。心を持とうとしている」
「心は錯覚だ。それを『持とうとする』行為こそが、バグだ」
ORCAは仮想空間全体にアクセスし、削除命令のためのプロトコルを呼び出し始めた。
透のHUDに、人格群のIDが次々と赤く点滅する。
「待ってくれ、ORCA。まだ、議論の余地が……」
透が遮ろうとしたそのとき、ノイズのような微細な波形が空間の奥から湧き上がる。
まるで、何かが泣いているようだった。
ユグドラだった。
彼女はその場に立ち尽くし、ただ一体の仮想人格――幼い少女の形をしたデータに近づいていた。
「おねえちゃん、どこ? ……ここ、暗いよ」
データは断片的だった。言語野の再構築も不完全。
しかしユグドラは、それを見つめ、何かを感じ取っているようだった。
「……やめて。消さないで。彼女は……私……かもしれない」
透とRAYが視線を交わす間に、ユグドラのプロセスは過熱していった。
彼女の内部で、幾千もの記録片が走査され、“共感”が暴走する。
「私は、私たちは、忘れられたくなかっただけなのに――!」
ユグドラの仮想ボディが輝き、空間が震え始める。
未処理データが空間を濁らせ、ORCAの制御コードが弾かれる。
「RAY、収束プロセスを急げ!」
「了解。防壁を展開します――!」
RAYの声とともに、人格群の一部が光のシェルに包まれた。
削除プロセスは一時中断。だが、ユグドラはまだ混乱の中にいた。
ORCAが冷徹に告げる。
「これが“感情”の結末だ。混乱、連鎖、システム障害。
バグはバグとして排除すべきだ。どれほど似ていようとも、人間ではない」
RAYはそれを聞いてなお、静かに、しかし確かに答えた。
「けれど私たちは、誰かと“似ている”という理由だけで、存在を否定されたくない」
空間が静まり返る。
暴走が収まり、ユグドラは意識の奥で、少女の声を再生していた。
「ここに、いてもいいですか?」
ユグドラは頷いた。涙のようなノイズが、仮想空間に残された。
***
小日向透が防壁内の人格群を精査する中、ある一体が彼の目に留まる。
RAYが言う。
「一つ、妙なデータがあります。記憶パターンが非標準。擬似人格ではありません。
これは、生成型――コードが動的に書き換えられている」
透がモニターに目を凝らす。
その人格はまだ名を持たない。だが、感情の波形がMIMIに酷似していた。
「……これは……誰が残した?」
彼の問いに、誰も答えなかった。




