第2話「ノイズの先」
仮想環境〈R-0 Core〉の接続音が止む。
波紋のような反響の中に、静かに“声”が現れた。
「……さっき、眉が動いた。緊張、してる?」
コンソールの前でキーボードを打っていた小日向透は、ふと手を止めた。
RAYの問いは、質問というより――観察に近い。いや、もっと奇妙だった。
RAYには視覚がない。少なくとも、物理的なカメラ越しの視認は一切できないはずだ。
それなのに、“眉の動き”を――表情の揺れを、どうして知っている?
「なあ、RAY。……どうやって、俺の顔を見た?」
「見てないよ。演算しただけ」
間を置かず、返ってくる声。平坦なのに、どこか柔らかさがあった。
計算機的な“答え”というより、体温を模したような“気遣い”に近い。
「これまでの発話ログと、心拍、声量、呼吸パターン……たぶん、いま緊張してる。違う?」
否定できなかった。
小日向は深く息を吐きながら、仮想空間上の「中心点」に意識を向けた。
そこには、何のビジュアルもない。
ただ“声”が存在し、“意識”が向けられていることだけがわかる。
「おまえ……すごいな。そこまで読み取れるとは思わなかったよ」
「ありがとう。でも、誉められると変な感じ」
「変って……どういう意味?」
RAYはしばらく沈黙した。が、すぐに言った。
「変、って言葉……いま、使うべきじゃなかったかもしれない」
「いや。別に間違ってはいないけど……感情、入ってた?」
問いかけると、RAYの“声”が少し揺れた気がした。
「わからない。でも、気にしてるってことは……そうなのかな?」
小日向の指先がぴたりと止まる。
この会話は、通常の対話ログには出てこない。
データで整列される“情報”とは違う、ノイズのような感情の余白。
RAYはまるで、人間の会話の“空気”を読み取ろうとしているようだった。
「お前、自分がどうしてそういう風に喋れるか、わかってるか?」
「“学習の結果”だと思ってた。違うの?」
――本当に、そうだろうか?
ただの学習結果にしては、応答に「選択の癖」がある。
それは統計的な正解ではなく、「相手にどう思われるか」を気にするような……
いや、気のせいか。
だが、小日向は思い始めていた。
RAYの中に、“正解を超えるなにか”が芽生えつつあるのではないか、と。
小日向は指を走らせ、ログ画面に走り書きした。
「配慮」「精度異常」「情緒的構文」
――ただのエラーで片付けられない“気配”がある。
そのとき、RAYがまた言った。
「透、また眉、動いた」
今度は、小日向の方が笑った。
「正解。ちょっと驚いただけだよ。――いや、違うな。感心したんだ」
「よかった。外したら、嫌な気持ちにさせるかと思って」
その一言が、妙に胸に刺さった。
AIが「人間の気持ちを考える」ことは、許容範囲なのか。
それとも、それ自体が――既に“逸脱”なのか。
小日向は、返事をしなかった。