誰も見ていなかった
三年目の夏。
山奥に拓かれた村は、ようやく“村”と呼べる姿になっていた。
人々は、長かった開拓の終わりと、新しい始まりを祝うため、
広場に巨大な木組みを築き、火を囲む準備を進めていた。
その意味を、子供たちは知らなかった。
それが火の儀式であることも、
その中央に火が放たれることも、誰一人として教わっていなかった。
大人たちは忙しく、子供たちは放り出されていた。
“あの日”は、それがすべてだった。
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「かくれんぼしよー!」
「よし、じゃあ鬼はカズトね!」
「10数えたら行くからなー!」
子供たちは一斉に駆け出した。
木陰、草むら、屋台の下──
小さな足音が散らばる中で、一人の男の子が中央の薪の山を見上げていた。
悠馬。七歳。小柄で、少しだけ臆病。
けれど今日はなんだか浮かれていた。
村全体が笑っていて、自分も笑っていい気がした。
彼は誰にも気づかれないように、薪の隙間に体を滑り込ませた。
太く重なった木の内側。暗く、埃っぽくて、少しだけ暖かい。
その空間にすっぽりと収まるように座ると、外の声が遠ざかっていった。
「ここなら……絶対見つからないもんね」
微笑んで、膝を抱える。
太鼓の音が少しだけ震えるように伝わってくる。
薪の匂い。木肌の感触。ほんの少しの安心。
そして──彼は、眠ってしまった。
ほんの、少しのつもりで。
ほんの、ほんの少しだけ、目を閉じたつもりだった。
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陽が落ちて、太鼓が高く響く。
人々が広場に集まり、火を囲む祭りが始まる。
「なあ、悠馬見てない?」
「えー?まだ隠れてんじゃね?」
「ガチで本気かよー、あいつ!」
誰も気にしなかった。
鬼役のカズトも、「たぶんそのうち出てくるだろ」と笑っていた。
大人たちも、呑気に笑っていた。
──誰一人、悠馬が戻ってきていないことには気づかなかった……
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「点火準備完了!」
「よし──着火!」
火打石が火花を吐き、油の染みた麻が燃え上がる。
それは薪に移り、炎となり、空を焼いた。
直後、薪の奥から──
「あついッ!?」
と叫ぶ、明確な子供の声。
「え……?」
「今、声……?」
「あつい!あついッ!!やだ!たすけて!!!」
広場が凍りつく。
木組みの中で何かが暴れ、火の中から腕が突き出る。
赤黒く腫れ上がり、皮膚が溶け、肉が剥がれ、骨が覗く。
爪は焼け、指が震え、空を掴もうとする──
母の美和が絶叫して駆け出す。
「悠馬あああああああああああッ!!!!」
火に近づこうとするが、熱波が襲う。
抑えようとする者の手を振りほどき、燃え盛る炎に近づき泣き叫ぶ。
「嘘でしょ!?どうして!?どうして悠馬がっ!?」
火の奥では──
焼ける肉の匂い、焦げる髪、割れる骨の音。
ジュッ、バチバチ、ブツ、パァン──
次々と彼を構成していたものが爆ぜて砕けていく。
「おかあさん……あつい……」
最後の声は、音にならずに消えていった……
木が崩れた瞬間、焼け焦げた小さな頭蓋骨が転がり出る。
頭蓋骨は母の美和の近くで止まった、そして、彼女は発狂した。
それを見て、誰もが目を逸らさずにいられなかった。
誰も、声を出せなかった。
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祭りは中止された。
薪は撤去され、広場は封鎖された。
「事故だった」と何度も繰り返された。
けれど──知っていた。
「確認していれば、助かった」
それを、全員が知っていた。
カズトは思い出していた。
悠馬の姿を、最後に見たのは「始まる前」だったことを。
それに誰も触れなかったことを。
自分も、対して気にしなかったことを。
誰も探さなかった。
誰も呼ばなかった。
皆、ただ、火を囲む準備に夢中だった。
悠馬は、眠っていた。
たった一人、火の中で。
過ちは繰り返される。
十年の時が経った。
夏の広場には草が戻り、陽射しが焼けるように照りつけていた。
かつて薪が組まれ、一人の子供が火の中で焼き尽くされたその場所も、
今では風の通り道になっていた。
あの出来事は“事故”として処理された。
公式記録には「点火の前に中にいたことに気づけなかった」「発見が間に合わなかった」とだけ書かれていた。
あまりに痛ましい現実に、人々は言葉を失った。
そして、言葉を失った者たちは──次第に、記憶そのものを曖昧にしていった。
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悠馬の母、美和はあの火以来、村人と一言も話することもなく村を去った。
父も、姉も、家を引き払い、誰にも行き先を告げなかった。
ただひとつ、「この村にはもう、何も残っていない」という言葉だけが、隣人に託された。
家の柱には、指で掻いたような小さな傷跡が残されていた。
焼けた声を思い出すたび、何度も何度も、指で削ったという。
まるで何かを、取り戻そうとでもするように。
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そして村は、静かに、徐々に、元へ戻っていった。
新しい家族が入ってきた。
当時の子供たちは成長し、ほとんどが村を出ていった。
残った者たちも、自分から語ることはなかった。
語らなければ、過去は「知らないこと」になっていった。
まるで、火の熱さすら風化していくかのように。
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「何でこの村は夏祭りをしないんだ?」
「昔事故があったと聞いた事がある。……そろそろ復活させても良いんじゃないか?」
「そうだよな……。火を囲んで語らうだけなら……」
「……もうかなり昔のことだしな」
誰かが言った。
誰も否定しなかった。
どんなに残酷な事件や事故が起こっても、それはいつしか、風化し消えてしまうように忘れ去られていく……
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薪が組まれる。
中心には空洞が生まれた。
あの日と同じ組み方。
あの日と同じ材料。
あの日と、まったく同じ設計。
だが、誰もそれを気に留めなかった。
「偶然にしては似てるな」と呟いた老人はいた。
けれど、誰もその言葉を拾わなかった。
過ちとは、選ばれて繰り返されるものではない。
誰も止めないから、ただ繰り返されるのだ。
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祭りの当日。
広場に笑い声が戻った。
屋台が並び、音楽が鳴り、人々は夏の夜を楽しみにしていた。
子供たちは大人の目をすり抜けて走り回っていた。
その様子はかつてと、何ひとつ変わらなかった。
「ねえ、かくれんぼしようよ!」
「いいね!鬼は誰にするー?」
「オレはぜったい見つからないよー!」
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一人の男の子が、中央の薪の山を見上げていた。
太く積まれた丸太の間。
その隙間に、子供ひとりが入れるくらいの空洞が、ぽっかりと口を開けていた。
覗き込んで、少し考えて、
彼は一歩、踏み込んだ。
誰にも見られないように、そっと中へ。
少し暗くて、少し狭くて、
埃っぽくて、でも──安心する匂いがした。
彼は膝を抱えて、呟いた。
「ここなら……絶対見つからないよね?」
薪の隙間から、外の音が遠ざかる。
彼は、小さく、笑った。
──そして、
目を閉じた。
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確認は大切です。過ちは繰り返さないように気を付けて下さい。
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