学校嫌いの理由
※公式企画『春のチャレンジ2025』参加作品です。
「お父んのアホ、石頭! 何でそないに頑固なんや!」
「ふん、何と言われようとわしゃ絶対に許さへんからな」
明治30年代後半、大阪の某所──。
福田家ではこのところ毎日のように、父子ゲンカが繰り広げられていました。
父親の惣八さんにとって息子の是定くんは、50歳を超えてようやく授かった念願の跡取り息子。
とても可愛がっていたようですが、どうもこのことについてだけは絶対に譲るつもりはなさそうです。
「だいたい、お父んは考えが古すぎんねん!
近所の人みーんなバカにしとんで。『惣八っつぁんは時代おくれの天保頭や』言うてな!」
是定くんがそう罵ると、さすがに惣八さんもむっとしたように返します。
「ワシが古いんと違うで。世間の方が軽薄で、節操無しなんや。
──だいたい、政府の元勲様とかいう連中は、何やねんあれ。
あいつら、『異人など追っ払え! 倒幕や、攘夷や!』とか言うて騒いどったハズやのに、御一新からこの方、やる事なす事ぜーんぶ西洋の猿真似やないか。
あんな恥知らずな生き方をするくらいなら、わしゃ『天保頭』のままでかまへんわ」
「あのな、御一新からもう何十年経っとんねん!
まわりを見てみ。いまだに『ちょんまげ』結ってるのなんて、お父ん以外に見たことないわ!」
実はこの福田惣八さん、病的なまでに大の『外国嫌い』。
若い頃、黒船来航にショックを受けて以来、世の中が変わってもずっと『攘夷派』のままなんです。
明治維新の後に、故郷の播州広村(現・兵庫県姫路市広畑区あたり)から大阪に出て餅やおかきの店を開き、初めのうちはそれなりにうまくいっていました。
でも、やがて台湾から安い米が輸入されて、同業者がそれを使って価格競争を始めたのに、惣八さんだけは『わしが舶来(外国産)の米など使えるか!』と頑なに高い国産米を使い続けていたそうです。
『舶来品嫌い』も相当なもので、時計とコーモリ傘以外は舶来品をいっさい使わなかったんだとか。
──なぜその二品だけ良しとしたのかは、よくわからないんですけどね。
他にも生涯牛肉を口にしなかったり、断髪令が出てからもずっと髷を落とさなかったりと、まるで『文明開化』を拒絶するような暮らしぶりで、周りからもかなりの変わり者と見られていたのです。
そしてその『舶来嫌い』は、明治になって西洋を手本に導入されたある制度にもおよんでいたようで──。
「あのな、お父んが西洋ギライなんは仕方ないわ。でも僕には関係ないやん!
近所の子らは、みんな『小学校』に通ってんねんで。何で僕だけ、小学校に行かせてもらわれへんのや!
お父ん、『ギムキョーイク』って言葉も知らんのか!」
「あほう、『義務教育』なんてのはただのお題目や。小学校に行ってへん子どもなんて、まだ世の中に五万とおるわい」
「それは田舎の方の話やろ! この辺りで小学校に行ってへんの、僕ぐらいや!
──僕、みんなから『寺子屋通い』ってバカにされてるんやで。何でお父んの西洋ギライのせいで、僕がイジメられなあかんのや!」
「寺子屋の何があかんねん。
あの『小学校』とかいうもんはな、ただの西洋の猿真似で、『西洋かぶれ』を育てるためのくだらんところや。
あんなところに行かんでも、読み書きや算術はワシが教えとるし、漢籍も松平先生のとこに通わせとるやろ? そっちの方が、よっぽどタメになるわい。
何もわざわざ、程度の低いところに行かんでもよろし」
「お──お父んのイケズ、わからず屋ぁぁっ!」
実はこの惣八さん、西洋式の学校は毛嫌いしていましたが、学問はむしろ好きで、特に算術に関してはなかなかの才を持っていたようです。
江戸時代の頃から、庶民の間で数学──特に図形問題を楽しむ文化が広まりました。学者でも何でもない普通の市井の人たちが、パズルのように数学の問題に熱中していたのです。
誰にも解けないような問題を考え出したり、過去の難問を解けたりした人は、それを絵馬や額に書いて神社に奉納することがありました。これを『算額』と言います。
今でも各地の神社に多くの算額が残っていて、姫路の広畑天満宮には、この惣八さんが若い頃に奉納したものが戦後まで残っていたそうです。
ただ惣八さん、算術好きが高じて米相場にもたびたび手を出していたのですが──残念ながら、バクチの才にはまったく恵まれなかったようです。
さて、是定くんが10歳の頃、惣八さんは突然この世を去ってしまいました。
珍しく米相場で大儲けして大喜びした直後に脳卒中で倒れ、そのままあの世行きだったんだとか。
母親も早くに亡くしていたため、是定くんは年の離れた姉夫婦に引き取られます。
ただ、惣八さんの『学校嫌い』のせいで小学校の卒業免状を取得できなかったので、中学に上がれなかったり、徴兵検査を受ける書類が揃わなかったりと、その後もかなりの苦労を強いられたようです。
やがて是定くんも大人になり、結婚して子をもうけます。でも皮肉なことに、定一という彼の息子もまた、大の『学校嫌い』だったのです。
もっとも、この定一少年の学校嫌いは、祖父の惣八さんとは理由がずいぶんと違いました。
彼は好奇心のかたまりで、どんなジャンルであろうと手近にある本を読まずにはいられない『本の虫』でした。おそらく、学校で教わるような知識ではあまりに物足りなかったのでしょう。
そして後に、定一少年の貪欲なまでの読書癖は、意外な形で大きな実を結びます。
その膨大な知識を武器に作家としてデビューし、やがて日本中に知らない人がいないほどの大人気作家になるのです。
『外国嫌い』で『舶来嫌い』『学校嫌い』だった惣八さんの血を受け継いだ、別の意味で『学校嫌い』だった孫、定一少年──。
彼こそが、数々の傑作歴史小説を世に送り出した『司馬遼太郎』先生なのです。