敵襲
坊の混乱は頂点を極めていた。誰に聞くべきか、どう伝えるべきか。この三人の中で、最も信頼たるは誰なのか。
灰掛に抱かれ、幌馬車を緊急脱出している今でさえ、何も考えがまとまらず、ただ流れに身を任せるしかなかった。
日陰を抜けると、陽光のまぶしさに目が眩む。
浮遊感が空中を跳ぶ放物線の頂を知らせ、後は下降の先に待つ衝撃に身体を硬直させて備えた。
太陽に焼かれた目を開くと、そこに突如として現れたのは、非現実的な場面であった。内側から吹き飛ばされる幌馬車が、物々しい破砕音と共に再生される映像。
思考が凍り付く。
あっと驚く間もなく、乾いた瞳は、信じ難い真実を次々と捉えていった。
一度瞬けば、次に映ったのは、木っ端みじんに砕け散る幌馬車と血しぶき。さらに瞬けば、サメの背びれのような光刃が一基、唯一形を保ったまま、 幌馬車を突っ切って先頭に躍り出た。
草むらを踏み締める音に、荷重がのしかかる。
坊は奥歯を噛み、耐え忍んだ。
一連の流れに声もでず、手は震えるばかり。馬のいななきが一瞬あがったが、それもすぐ死に呑まれていった。
瞬くたび、粉砕された木片やよく分からない血みどろの何かが、迫りくる。
絞り出そうとする微かな悲鳴でさえ、喉の奥に潰えて消えた。
あまりの光景に、坊は耐えきれず瞳を閉じた。やがて来る衝撃波にも備えなければならない。
直後、凄まじい暴風が、坊の髪を巻き上げる。想定される細々とした破片の到達は無いようだが、風が緩むと、すぐさまうっすら目を開いた。
千々に乱れ飛ぶ遺物が、まるではじき返されたかのように遠のいていた。
何事かと狭くなった視野を広げると、銀色の返照がその存在を大きく主張する。それは丙寅が手にする刀の金属光沢だった。ものめずらしい方頭刀で、鉈のような形であるが、二メートル越えの巨体に合わせたのかその大きさは異様だ。打刀ほど長く、厚みのあるギロチンのような銀刃。
その大鉈で薙ぎ払ったのかと予想がつけども、丙寅の姿は既に遠目にあった。八頭立ての馬車に向かい、あの巨体で虎のごとく風に乗り、草原を跳躍している。
まだ標的と五メートル以上距離があろうかというところで、丙寅は地を蹴って飛び上がった。
馬車の屋根上には男が一人。膝を着き、剣を頭上に振りかざしている。丙寅を迎え撃つ気だ。
「攻撃は避けるのが基本だろうにねえ」
丙寅が難なく大鉈を振り上げたところで、坊の視界が灰掛の手で覆われた。
手のひらの奥で、カンッ、と石を割ったような、薪を割ったような硬い音が響く。
「受け止めたところで、何の利点もない。受け流すか、全く避けるか。それか、立ち直れない程完膚なきまでに叩きのめすか。丙寅はあまり我慢できるタイプじゃないんだ、ご愁傷様」
灰掛は何が楽しいのか、クツクツと喉を震わせて笑っていた。坊の目を覆っていた手が頬をかすめ、頭を撫でつけてくる。
「どうした、坊」
GIグラスを外した鴉が尋ねてきた。
真っ白になった頭では何も考えられず、坊は素直に答える。
「なん、にも」
声が震えていた。流れた涙は、灰掛が拭ってくれた。まだ目に溜まる雫を鴉が見つめている。
「そうか、なら、手を合わすか?」
鴉の声色は最初となんら変わらないはずなのに、とどまる涙を拭ってくれるような温かさを感じる。
坊は小さく頷いた。
「また祈ってんのか、律儀だな。そんなもん、一日一回で十分だろ」
坊が手を合わせていると、返り血を浴びた丙寅がやって来て、即行悪態をつかれてしまった。
途中からは、己の心を静めるために費やしていたので、思ったより時間がかかっていたのだろう。坊はそんなに待たせてしまったのかと、すぐに取りやめて謝罪する。
「ごめんなさい。終わったよ」
「終わらせたのだろう?アレは気にするな。気になるというなら、排すか?」
鴉が無心でとんでもないことをサラリと言ってのけた。きっと何かの間違いだ。でなければ、どう転がっても悲しい結末が訪れてしまう。
そこで坊はこう思うことにした。彼らはすこぶる仲が悪く、これは喧嘩友達の日常の語らいなのだと。つまり、パンチの効いた冗談である。
「まだ終わってねえんなら続けろ。半端は気持ち悪いだろうが」
口が悪すぎて分からなかったが、丙寅は止めろと言いたかったわけではないらしい。状況が状況で、頭もまともに働かないので、もう少し分かりやすく言ってくれるとありがたい。
「でも坊くんって、確かに律儀だよねえ。三時間前に会ったばかりの御者に手を合わせてたんでしょ?」
「こりゃ、馬にも合わせてそうだな!ハハッ、傑作だぜ、なあ、灰掛」
ここで坊が幌馬車にもしていたと言えば、この二人は抱腹絶倒か空々寂々の無か、即座に二択を迫られるだろう。
「和国では、死なばみな仏と言って、人も獣もないんだ。彼らは突然の死に驚いているだろうから、特にね」
「みな、ねえ。ハハハ、ゾクゾクするぜ。お優しいことで」
なおも揶揄する丙寅に、そろそろ鴉が限界を迎えそうなので、坊は思い切って話題を変えることにした。
「ところでさ、あっちの馬車の人はなんで俺たちを攻撃してきたんだろうね?何か聞いた?」
丙寅からは、「はあ?なんでそんなこと聞くんだよ」とぶっきらぼうに返ってきた。
「だって、動機聞かなきゃ、何も分からないから。それから、一人はケガしてると思うけど、そっちも大丈夫かな?」
「知らね」
そっぽを向かれてしまった。
「話はそこまでだ。坊、用事はもういいのか?……そうか、終わったのなら、コルホールに向かう」
話に一旦キリをつけたところで、鴉は歩き出した。坊はその背に話しかける。
「えっと、徒歩で?」
「いや、馬車が確保出来た」
その足は八頭立ての馬車へと向かっていく。馬車に乗っていた人たちは、全員外に出て坊たちを待っていた。彼らは新しい仲間となるのだろう。
坊は自己紹介が苦手なので、ちょっぴり緊張した。
「わあ〜、一緒に乗せてくれるの?良かったね」
「わあお、和人の温度差に風邪ひいちゃいそう」
後方にいる灰掛が茶々を入れ、その隣の丙寅が「だろう!アッハハハハ!」と豪快に笑う。
彼らは振り返った坊を見ても、なお笑い続けていた。