ちゃんと知ろうとしたらそこは迷宮だった 11話
実業家・井湖田寅蔵という人物は『効果的な配置をする男』と評されたことがあった。
とにかく事業の協力を頼む会社の選択が抜群に上手かったのである。
そして『富士山が高いのは裾野が広大だからだ』という信念に基づき、基礎研究に対しての助成を大事にしていた。
「基礎という裾野が小さいのに、山を高くしようとするのは無茶な話だ」
これが彼の口癖だった。
井湖田富江はそんな夫と六十年ほど前に出会った。
彼は父親が興した商社に勤めていたときから知り合いが多かったが、その理由を教わったのは結婚してからだった。
それは中学生のときに幼馴染みを病で亡くしたというもの。
「一緒に大人になって社会人になったある日、酒を酌み交わすと思っていたんだがなぁ」
縁は、いつの間にか切れていたり消えていることがある。
でも、相当な理由が無い限りは自分からは切りたくはない。それにハサミも使いすぎれば切れ味が悪くなる。
そういう話を聞くと夫の交友関係に口を出すのは憚られたが、それでも酒の付き合いは程ほどにして欲しいと言ったりもした。
そんな夫婦生活も十年目を迎えたころ、寅蔵の元に海外から手荷物が送られてきた。
中に入っていたのは大きさや形のまちまちな複数の水晶。
送り主の名はエドワード=アルバーン
中には手紙が入っており、「親愛なるトラゾー、彼らを託す」とだけ書かれていた。
夫は十年来の友人だというが、富江がその名を聞いたのは初めてだった。
「彼との付き合いは、まぁ……ひょんな事から始まったよ
当時のことを夫は一つの水晶を手にしながら楽しそうに語ってくれた。
その頃の寅蔵は社長の息子とはいえ、平社員として会社の業務に携わっていた。
このときの上司は彼を特別扱いする風でもなく、不当な評価をせず他の社員と平等に対応してくれた。
今思えば父親がどこからかスカウトした理想的な教育係に思える。
何しろ、その上司が育てた社員たちは井湖田グループの中枢となって井湖田家を支えてくれているのだから。
「そんな上司が、たった一度だけ奇妙な失敗をしたんだ」
珍しいことに上司は何らかの安請け合いをして、英国からの客を“もてなす”事になった。
その皺寄せが寅蔵に降りかかったという展開だった。
『たいていの失敗は、後から訂正や修正をしれば失敗のままではない』と言っている上司が、困惑している事態である。
半分緊張しながら寅蔵は空港まで行き、英国から来た青年を好意的に出迎える。
それがエドワード=アルバーン、そのひとだった。
日本へ来た目的は、山梨県の水晶産業を見てみたいというもの。
ただし、当の本人は宝石などのバイヤーではないとのこと。
「井湖田さん、よろしくお願いします」
青年は流暢な日本語で喋った。
何かで気が急くのか、エドワードは空港からそのまま山梨へ行きたいという。
上司からはエドワードの都合を優先して、彼が帰路についたら会社に来るようにといわれている。
寅蔵はすぐに山梨行きの手筈を整えた。
「山梨に何か目的があったのですか?」
すると寅蔵は少し困ったように笑う。
「エドワードは“かぐや姫”を探していた」
夫の言葉に富江は首を傾げる。
「かぐや姫って山梨の話でしたか?」
「富士山がらみでの判断だとしたら、静岡が黙っていないだろ」
そもそも竹取物語は奈良県が舞台だといわれている。
「それにエドワードは人の姿をしたかぐや姫を探していたわけじゃない」
では英国の青年の言うかぐや姫とは誰なのか。
富江の問いに、彼は視線を手に持っていた水晶に移す。
「エドワードにとって竹取物語は“綺麗な文章で表現された完成体”だった」
日本語は一つの言葉に意味が複数ある。
漢字と平仮名と片仮名の組み合わせが複雑だが、一つのページに表される物語が一枚の絵のよう。
そうかと思うと日本には絵心経というものもあって、発想が楽しい。
山梨に向かう列車の中で、寅蔵は日本語について熱く語られた。
「そういえばエドワードは、竹取物語はもともとクイズだったのではないかと言っていたなぁ」
「クイズですか?」
「最初は何の事かと思ったが、彼からメモを渡されたときクイズの意味がわかったよ」
寅蔵はテーブルの上にあった新聞紙の空白に漢字を書く。
『笮』と 『筰』
「これはエドワード曰く、御仏の石の鉢を持って来てほしいといわれた石作りの皇子を示す漢字だったのではないかというんだ」
何のことだか分からず、富江は漢字をじっと見る。
「何故ですか?」
「何故というよりも、彼は竹取物語を“貴公子が素晴らしい女性を手に入れ損ねる物語”として、時代が変わればその名も変わる遊びではないかと言っていた」
素人の想像だし、そもそも今では石作りの皇子で定着しているから、その時代その時代の有名人の名前で遊ぶ様なことはしない。
ただ、場合によっては高貴な人をそのような物語の肴にすればお咎めもあるだろうから、漢字一文字で隠して楽しんだ人もいたかもしれない。想像の領域ではあるが。
「だから題名が“竹取物語”だと彼は言ったよ」
部首の竹冠を取れば、おのずと名前が判明する。これによって派生の物語があったのかもしれないが、そこまではただの雑談で終わらせた。
結局、どう考えようと個人の範囲であれば好きにすれば良い、という結論で二人は山梨に向かう。
この旅行でエドワードは水晶を幾つか購入した。
その購入の仕方も、長く吟味をして場合にはタロットカードやらペンデュラムを持ち出して納得するという念の入れよう。
「エドワードは普通に水晶を購入するために日本へ来たというよりも、かぐや姫の名に相応しい水晶を探すために来たのだろうなぁ」
彼は懐かしそうな表情をした。
その後、エドワード=アルバーンの訃報が寅蔵のもとに伝わり、彼は自分の書斎に大型の水槽を置き、英国から来た水晶たちを中に入れてテラリウムをやり始めた。
どんなに忙しくてもなるべく帰宅してテラリウムの管理を行う。これは夫にとって息抜きなのだろうからと、富江はあまり関わらなかった。
子供たちも水槽の外から見ているだけで、中のものに触れようとはしない。
一度、次男が中の水晶をよく見ようと手を伸ばして、寅蔵に「許可なく人のものに手を出すのか」と怒られたからである。
そして水晶たちが書斎の主のようになって半世紀ちかく、それなりに忙しくも平穏に暮らしていた。
パーソナル・コンピューターが世間に登場すると、それも書斎に置かれるようになる。ますますそこは実業家・井湖田寅蔵の仕事部屋であり、憩いの場所となった。
常にそのパーソナル・コンピューターは大型のタワー型で中身は寅蔵が吟味したもので構成されており、彼が個人でノート型を使う事は無かった。
しかし二年くらい前に寅蔵が急に倒れて入院。退院までの一週間は、富江が中心となって家族全員でテラリウムの世話をした。
このときに富江は初めて水槽の中の水晶たちに触ったのである。
ところが寅蔵が退院してテラリウムの様子を見てみると、水晶の一つに大きなヒビが入っていた。
富江が「あなたの身代わりとなってくれたのですね」と言うと、夫は哀しそうな顔になる。
しかも水晶に向かって「すまない……」と涙をこぼし、後日その水晶を何処かへ持って行ってしまったのである。
(あの人があの水晶を託したであろう人物が、今日のツアーに参加しているらしい)
息子たちはもともと関心がないのか母親である自分にも関わるなと言ったが、寅蔵の妻としては夫の身代わりになってくれた水晶を自分ではなく別人に渡したというのが気になる。
しかし秋葉原という場所は広かった。
そして目の前にはお手伝いさんである和美とその息子がいた。
「大奥様、息子の陽一です」
紹介されて、佐伯陽一は挨拶をする。
「はじめまして」
礼儀正しく挨拶をする中学生に、富江は好感を持つ。
しかし一人息子については話題には出ても会ったことは無かった。
陽一は母親に昼に『魚自慢』で食事をしていたツアーっぽい客たちを、近くで見かけたという。
この店は寅蔵の気に入りの店だというのは和枝も聞いた事があった。陽一はそれを覚えていたのである。
「何で分かったの?」
母親の疑問に彼はアッサリと答える、
「案内人らしい人がマダラ模様で猫耳フード付きの上着を着ていたから」
結構目立っていたという事だった。
富江はそこへ連れていってほしいと頼んでみた。
一緒に連れて行けないのなら自分一人で行くから迷惑はかけないとまで言って。
すると和枝が「迎えが来るまでまだ時間がありますが……」と言って息子の方を見る。
「店ならけっこう近くだよ」
その返事に富江は喜び、三人は目的の店に向かったのだった。




