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episode8 第26話

 矢追家のキッチン。

 エプロン姿の母子が仲良くクッキーを作っている。

 由愛にもらったレシピにはごくごく普通の材料ばかりが書かれていたので、うちのコンビニにある物で間に合わせることが出来たのは幸運だった。他から調達する必要があった場合、ナナコにはちょっと厳しい任務になってしまうからな。まあ、一流の料理人は材料を選ばずというところなのだろう。いくつか味見をさせてもらったが、この前もらったものと変わらずおいしかった。流石はレシピ考案者とその教え子だ。レシピに書かれていたトロロのクッキー以外にも様々な種類のものが出来上がっていく。

 調理は二人に任せて、俺とナナコは、主にクッキーの盛り付けなんかをしてサポートを担当していた。

 肩を並べ初めての共同作業を続けている由愛と麻耶。

 長い間、願い続けていた夢が叶った二人がどんな会話をしているのだろうかと、ちょっと様子をうかがう。だが、二人が話している内容は、砂糖の分量をどうするかとか、こね方や、後何分くらい焼いた方がいいとか、そんな他愛のない話しだけだった。他にもっと話すべき内容があるような気もしたが、そんな何気ない会話でも二人は何が楽しいのか笑い合っていた。

 いや、由愛と麻耶にとっては、会話の内容なんかよりも親子で同じ時間を共有している方が遥かに大切な時間なのだろう。それこそが、二人が望んだことなのだろう。

 次々に焼き上がっていくクッキーの山。

 あっという間に、ナナコが持ってきた材料はなくなり、全てのクッキーが完成した。

 時計回りに、由愛、麻耶、俺、ナナコと四角いテーブルに焼きたてのクッキーを囲む。そこでの談笑も、今日、学校で何があったとか、今度何をやるとか、俺が学生だった頃にオヤジが頼みもしないのに聞いてきたことばかりだった。

 だけど、それは奇跡のような光景で、ほんの少し前の俺には信じられないものだった。

「夢じゃないんだよな……」

 目の前の光景が幻ではないことを証明するために、俺はナナコに頬をつねってもらう。軽い頬の痛みがこれが現実なのだと主張している。

 自分だけでは心配なので、ナナコの柔らかそうなほっぺもつねる。

「いふぁいわ……」

 ナナコが言うなら間違いないだろう。

 目の前にあるのは、まぎれもなく仲睦まじい家族の姿だった。

 特別なものではないけど悪くない世界――いい現実イメージだ。

 それからも俺たちは、みんなで取りとめのない話や、クッキーの感想を言い合ったりして過ごした。

 ナナコがひそかに作ったというバナナクッキーも、なかなかにイケた。バナナチップのようなカリッと感とクッキーの甘さが絶妙にマッチしていて、みんなに好評だった。

 そうこうしていくうちに、個人的には作り過ぎだと思えたクッキーも、気が付けば残り一つになってしまった。

「あ……」

 皿の上の四つ葉のクローバーの形をした最後の一枚。俺は伸ばした手を引っ込める。

 隣を見ると麻耶の右手が透けている。どうやら、これで最後のようだ。

 と、誰もが身動きできない中、由愛が一枚のクッキーを、四つに分けて、ナナコ、俺、そして、麻耶に手渡す。

 由愛は本当に強い子だな……。

 くっ――。

 奥歯を噛みしめる。胸がいっぱいで、俺は手のひらに乗る夢のかけらを見つめることしか出来ない。ナナコの方も、どうしていいのか分からないという表情をしている。

「ごめんなさい……」

 麻耶が由愛に頭を下げる。

「え……」

「随分と待たせてしまったわね……」

「ううん。たった16年だよ。夢が叶うまでの時間だと思えば全然短いよ。何年経っても、大人になっても叶うって信じてたから……」

 子から母に向けられる優しい微笑み。

「それに、お母さんからは、沢山のものをいただきましたよ。私はいつもその存在を側に感じていました。ひとりではありませんでしたから。だから、謝らないでください」

 テーブルの下。膝に乗った拳が堅く握られる。

「これ、おいしく出来ていますか?」

 由愛が、「あ~ん」と麻耶を促す。麻耶はそれを受け入れると、今度は由愛の想いに応えるように自分のクッキーを差し出す。

「うん……。とっても、おいしいわ」

 俺とナナコも、二人にならって互いのクッキーを口にした。噛み締めると、甘く幸せの味がした。

 四つの笑顔がリビングに花開く。

「ごちそうさまでした。本当、みんなおいしかったわ。今までよく頑張りましたね」

 麻耶のお褒めの言葉に、由愛は照れくさそうに笑った。

「それじゃあ……。これを食べ終わったからには、もうお別れね……。楽しかったわ……」

 そう言うと、麻耶は椅子を引いて立ちあがった。

 由愛はうなずいたまま顔を伏せて固まる。

 麻耶は、由愛に向かって両手を広げて見せる。

「抱きしめさせて」

「え……?」

 唐突な告白に思わず顔を上げる由愛。

「その……。最後……だから……」

 寂しげな笑み。

「さい……ご……?」

 こぼれ落ちる雫。

「さいごなんて……、そんなの……いやだよ。さよなら、なんて、したくないよ」

 溢れ出る想い。

「ようやく会えたのに、これで終わりなんて、そんなの……。そんなの……。もっと一緒にいたいよ」

 今まで大人しく母とのひと時を過ごしていた由愛も、その時を前に感情があふれ出したのか、綺麗な顔をゆがめた。

「私は、ずっと思ってた。私なんて生まれてこなければ良かったのかもって……」

 麻耶の瞳が大きく見開かれる。

「私が生まれたから……。私を生むために……。私がお母さんの寿命を縮めたんじゃないかって。でも、何も出来なくて……。だからせめて、私は泣いちゃいけないんだって、笑ってないといけない、元気じゃないといけないんだって……」

「そんな風に思ってたなんて……。ごめんね……。お母さん死んじゃって、ごめんなさい……。でもね。私の時間は最初からそんなに長くはなかったんだよ。だから、気にすることなんてないのよ。たしかに、出産を――無謀なことに挑戦しなければ、あるいは、もう少し長生きが出来たのかもしれないね。でもね。どうせ死んでしまうなら、前向きな死を選びたかった。ユメを叶えいと思った」

「だけど、これでさよならなんてっ!」

 麻耶の胸に飛び込む由愛。抱き締める両手に力が込められる。

「ありがとう。でもね、さよならじゃないよ。これまでも、これからもずっと一緒……」

 ――私はここにいる

 そう告げるように、麻耶は由愛の胸に手を当てた。その拍子に、ふわりと麻耶の体が浮き上がる。

「私、お母さんの研究――夢、絶対に叶えるから」

 由愛は顔をクシャクシャにして、麻耶にしがみついた。

「研究? 違うよ。私の夢はもう叶ってるわ。私の夢はとっくの昔に叶っていたのよ」

 慈愛に満ちた微笑みが由愛を包む。

「ゆめ……。ゆめちゃん……」

「はい……」

 麻耶は何度もその名を呼び、由愛はその度にそれに応えた。

「永遠に愛してるわ……」

 母は、娘は、きつく跡が残るほど互いの体を抱き締め合った。

 が、やがてその体が光に包まれてぼやけると、麻耶は自ら名残惜しそうにその身を離した。

「生まれてきてくれて、ありがとう……。私の子に生まれてくれて、ありがとう……」

 そう口にすると、互いのおでこをくっ付ける。

「私は由愛ちゃんの母親になれて幸せだった」

「私も、お母さんの娘になれて、幸せです」

 微笑み合う母子。これが、きっと最後の光景なのだろう。

 そこにいた皆が同じ夢をみていた。

 一分でいい。一秒でいい。一瞬でもこの時間が長く続けばいいと俺は願っていた。

 だが、徐々に視界がぼやけ、目の前の奇跡は、完全に光となり消え去った。

 と、激しい睡魔に見舞われ、まどろむ。その朦朧とした意識の中、声が聞こえた。



 ――ありがとう。ようやく……。これで……ゆっくり……眠れる。



 それから、どれだけの時間が経ったのだろうか、気が付くとカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。

 むっくりとナナコが体を起こし、

「朝……だ」

 俺はそれに黙ってうなずく。

 ああ……。夢みる時間は、終わりだ。






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