episode8 第19話
受話器を置いて振り返ると、ナナコがどんぶりの中のご飯でおむすびを作っていた。
「行くんでしょ?」
「ああ。でも……」
作りたての夕飯はおいしそうに湯気を上げている。ナナコがせっかく作ってくれた料理も、冷めてしまえば明らかに味は落ちてしまうだろう。何となく申し訳ないような気になってしまう。
「なら早く行った方がいい。郷力が心配だ。大丈夫……。料理は逃げたりしない」
「そうだな……。夕飯は帰ってきたら、ちゃんと食べさせてもらうからな」
うなずくナナコから、ラップにくるまれたおむすびを二つ受け取る。と、ナナコの白くきめ細かい指に違和感を覚える。
「って、お前、指切ってるじゃないか」
手を取ってよく見ると、指の薄皮が切れている。痕が残るほどじゃないが同様の傷がいくつもあった。味噌汁の具をカットする時にでも切ったのだろうか。
「問題ない。もう傷は塞がっている。ローマは一日にしてならず。由愛はいつも頑張っている。願いを叶えるには努力が必要だって教えてくれた。おいしいものを作るためには練習は必要だ」
「バカ、痛かっただろ? 綺麗な手がこんなになって」
叱りつける俺を、ナナコはこちらを覗き込むようにしてジッと見つめた。
「馬鹿でいい。綺麗じゃなくてもいい。わたしはただ武蔵に、わたしが作ったものを食べて欲しかった。だから……」
制服のままのナナコ。シンクの三角コーナーを見ると、テーブルにある料理以上の残骸があった。心なしかナナコのお腹がいつもより膨らんでいるような気がする。
俺が口にしたのは最高の出来のものだったというわけか……。
「ったく。お前ってやつは……」
ちっ、三角コーナーの玉ねぎが目にしみるぜ。目尻を拭おうとするもそれを阻まれた。今度はナナコが俺の手を握り返していた。傷ついた白い指が大きくゴツゴツとした手を優しく包み込む。
「だから、作ってよかった」
白魚のような指が、節くれ立った稜線をなぞる。
「食べてもらって、分かったんだ……」
「分かったって、何が?」
ナナコは掴んだ手をそのまま自分の胸に当てて、
「気持ちがいい……」
「なっ――!」
唐突な出来ごとに体が硬直する。下手に手を動かすと、いけない場所に触れそうになってしまう。
「この辺りが凄く心地いい」
と、ナナコが俺の意思を無視して、掴んだものを胸の中心に押し付ける。控え目なクッションに手のひらがわずかに沈み込む。
「気持ちいいものだな。誰かに褒めてもらえるのは……。おいしいって言ってもらえるのは……」
そういうとナナコは目を細めた。俺もオヤジと交代で料理はするが、『おいしい』なんて言ってもらっても、それは当り前のことで特に何かを感じるはなかった。だけど、目の前で穏やかな笑みを浮かべているナナコを見ていたら、なぜかその言葉が特別で、心に響いた。
「そうか。気持ちいいのか」
ナナコの言葉を正しいと証明するように、俺が触れた柔らかな場所は、優しくこちらをノックしていた。
ナナコがずずずい~っと、こちらに一歩踏み出して、俺に体を預けてきた。
「ど、どうした?」
「おいしい料理を作ったものにはご褒美が与えられると、由愛が言っていた。とりわけ、頭をなでるのは、最上級のものらしい」
「何馬鹿なことを言って――」
一歩後ずさる俺に、ナナコがしがみつく。
「もしかして、ホントはおいしくなかったのか?」
「いや、本当に、おいしかったよ。でも、それとこれとは話が別だ」
「むな志も、嬉しいことがあると武蔵に抱きつく。だから……」
あの人の場合、それこそ、ホントに話が別だ。
「んっ」と、黒々とした頭をこちらに預けてくるナナコ。グイグイと華奢な体を強引に押し付けられて観念した俺は、艶やかな髪をすくようにナナコの頭をなでてやる。
猫のように目を細めて最上級のご褒美とやらをナナコは享受していた。
誰かに何かをしたり、ねだったり。こいつも変わろうとしているんだな。
いや、ナナコだけじゃない。由愛も彩音だって変わろうとしている。それはとても凄いことだ。それは、多分成長している証なんだと思う。
「お前、変わったな」
なんとなくそれが羨ましくて呟く。
「わたしは何も変わっていないわ」
自らの変化を確かめるようにポンポンと頭頂部に手のひらを乗せるナナコ。それが微笑ましくて俺は口の端を上げた。
「いや、そうじゃなくて。大人になったなって」
「オトナ?」
今度は両手でペタペタとその控え目な胸に触れる。ナナコにとって『大人』=『胸』なのだろうか? 確かに、大人への変化の象徴だとは思うが……。
「じゃなくて、人として成長したってことさ」
「人として?」
小首をかしげるナナコ。
「それはわたしには分からないわ」
そう言われると俺にもうまく表現出来ない。精神的成長。心の発育。責任感。自立。色々とその要因は思い浮かぶが、どうにも言い表せられない。
「よく分からないけど、だがもし本当にそうだとすれば、武蔵がわたしを見守っていてくれたからだ。武蔵だけじゃない、むな志や由愛……。わたしを心配してくれるみんなが、わたしを変えてくれたんだと思う」
「俺たちが? けど、俺は何もしちゃいないさ」
「それでいいんだ。何もしてくれなくても、誰かが見ていてくれるんだと思うだけで、凄い力を貰えている。一歩踏み出すことが出来る。もしも、わたしが本当に一人なら何も変われていないはずよ」
「そんなものかね……」
「そうだ。武蔵は自分が思っているよりも誰かにとって必要な人間だ。だから、早く行ってあげて。郷力が……。大切な友達が待っている」
そう言うと、ナナコは促すように俺の尻を叩いた。