episode8 第5話
午前の授業を終え、廊下の窓枠に肘を乗せて頬杖をついていると、少し離れた場所から女生徒たちのヒソヒソ話が聞こえてきた。
「聞きました? また出たそうですよ」
「え? また? 今年になってもう何度目かな? 去年はそんな噂、ほとんどなかったのにね」
何だ? 何が出たんだ?
職業柄か、自然と女生徒の内緒話に興味をひかれる。
「うそー。こわーい」
と、どうにも穏やかじゃない会話が耳につく。もしや、変質者でも出たんじゃないか?
『変質者』というワードに、俺はピクリと反応する。俺の中で、『変質者』=『オヤジ』という図式が出来ているので、どうにも気になってしまう。オヤジの野郎、近いうちナナコの学校生活を覗き行こうかと言っていたので、聞き耳を立てて女生徒ににじり寄る。
すると、女生徒たちもこちらに気付いたのか、訝しげに視線を向けられる。
俺は、「ははは」と乾いた笑いを浮かべて誤魔化す。
「いや~。何が出たのかな~って気になっちゃって」
「あれ? もしかして、先生も興味があるんですか?」
二人の女生徒の内、ショートヘアーの方が嬉々として、俺の質問を質問で返した。
「いや、興味も何も、何の話かまだ詳しく聞いてないんだけど……」
「ですよね~」と、おどけてみせるショートカット。
「もう、加奈子はいつもそうなんだから」
もう一人のロングヘアーの方が呆れた様子で加奈子と呼ばれた子の頭を人差し指で押した。ショートカットの加奈子の方は、薄桃色の上履きを履いているので一年生なのだろう。ロングヘアーの方は、丸文字で『斎藤』と記入された紺色の上履きなのでどうやら二年生のようだ。
「それで、結局、何が出たのかな?」
「出たって言えば、これじゃないですか?」
加奈子は、当然とばかりに、胸の前で両手をだらりとたらしてうらめしや~の格好をする。
「ああ~なるほど」と俺はうなずいてみせる。
そういえば、そろそろそんな季節だな。
「もしかして、この学園の七不思議とかかな?」
トイレの花子さん、動く人体模型、ベートーヴェンの目が光るだとか、この手の胡散臭い話は、どこの学校にも存在している。
「二宮金次郎像がダンスでも踊ったのかしら?」
「ふふふ。そんなのあるわけないじゃないですか? 本物の幽霊ですよ。ゆ・う・れ・い」
「へー。そうなんだー」
急に興味をなくし、若干棒読みになった俺に、「本当なんです。だって、私、見たんです」と加奈子が訴えてくる。そして、こちらが聞いてもいないのに唐突に語りだした。
「あの日、私はバレー部の昼練をサボって図書室で、昼寝をしていたんです。すると、耳元で『かなちゃん。かなちゃん』って囁く声が聞こえてきたんです。練習をサボった私を先輩が探しにきたと思ったんですけど、その声はやけに穏やかで、どうも様子がおかしいかったんです。なんか、やだなー。こわいなーと思って、そのままやりすごそうと目を閉じていたんです。しばらくすると声がしなくなったので、そろそろ目を開けようとしたら、ガッと肩をつかまれたんです」
加奈子が、俺の肩に手を置いて、おどろおどろしい顔を近づけてくる。
「ビックリして目を開けた私の前に、どこからやって来たのか、何と、しわくちゃのおばあさんがいたんです。で、私が固まったまま見ていると、そのおばあさんは、ニヤリと微笑むと、蒸発するように消えたんです」
俺は斎藤と顔を見合わせた。
「それって、ただ寝ぼけていただけじゃ……」
「私も全く同意見です。その頃は、新人戦へ向けて朝昼晩、練習漬けだったのもあって、みんな寝不足だったんですよ。そのせいで変なものでも見たんだろうって。それに、たまたまそこに私のクラスの子もいたんですけど、そんなおばあさんはいなかったって言っていたんです。ただ、この子が一人で叫びながら唐突に起き上がっただけだって」
「そんな~。寝ぼけてなんていないですよ。確かにこの目で見たんですよ。それに、あのおばあさん、一年前に亡くなった私のおばあちゃんに似ていたから、見間違うはずなんてないです」
俺は、思わず「う~ん」と唸る。
これはあれか? 学校の先生を勘違いして、お母さんと呼んでしまうようなものか?
「もー。本当なんです」と、反論する加奈子を、斎藤がまあまあとなだめる。
「あの頃は、白雪姫ガールズの人が、幽霊を見たって噂が広まってた時期だし、あなたも同じようなことを体験した気になっただけでしょ?」
「白雪姫ガールズ? ああ、あの白雪姫シンドロームとか言う、眠ったままになったっていう生徒のことね。それで、その子たちが幽霊をみたって本当?」
「はい。彼女たちが、意識を失う前に、ありえないものだとか、半透明の幽霊らしきものを見たとか何とか言ってたんで、加奈子も自分がそういう経験をしたんだと錯覚したのかと……」
「でもでも、白雪姫ガールの人たち以外にも、何人か幽霊を見たって生徒がいるんですよ。つい先日だって、女性の幽霊が放課後の生物準備室に現れたってクラスの子が言ってました」
それは、初耳だった。あの眠り病の当事者たちに、話半分にしてもそんなエピソードがあったとは……。流石にそんな話を警察が信じるわけないし、証拠として残すはずもないが、どうにもオカルトじみた話になってきたな。
学園に現れる幽霊か……。俺自身、今回の事件と関連性があるか判断に迷うところだ。
いや確か、オヤジが言っていた『ナルコレプシー』という眠り病の入眠時症状に幻覚や幻聴が生じるといった話があったような気がする。もしかすると、この子もその病気なのか? いや、ナルコレプシーはそんな頻繁にお目にかかるような病気ではないとも言っていたので、やはり単純に見間違えだろう。
無言でそんなことを考え込んでいると、『グー』と加奈子のお腹が鳴ったのを合図に、話はお開きになり、二人は軽くお辞儀をして食堂の方へ歩いていった。
そういえば、俺の方も昼飯がまだだったのを思い出す。が、今日は、なぜか弁当がないんだったな。
どうしようかなと思っていると、廊下の向こうから、由愛とナナコが気持ち小走りでこちらの方にやってきた。
「いたいた。ムツミ先生、こんにちは」
優等生の由愛にしては珍しく、急いで廊下を移動してきたのか三つ編みが乱れている。それを胸の辺りに持ってきて形を整えるように撫でている。
「どうかしたの?」
何かあったのだろうかと、首をかしげる俺にナナコが一歩前に出て、抑揚のない声で告げる。
「ぱんつくった」
――なん――だと。
「パンツ食った?」
俺は上半身を斜めに傾けて、ナナコのスカートの裾を覗き見る。
「ダメですよ。同性でもセクハラは」
由愛にたしなめられ、俺は顔をあげる。と、ナナコが肌色の紙包みを差し出してきた。
俺はそれを受け取って、中身を取り出す。もしかすると、替えのパンツでも出てくると思ったが、何の変哲もないラップに包まれた四角いパンが出てきた。
「ぱんつくった」
「あっ、ああ。パン、作ったのね」
ったく、紛らわしい言い方しやがって。変な汗をかいてしまったぞ。
手のひら大の直方体のパン。上部にはこんがりと焼き色、サイドはそこまで高温で熱せられていないのか、ふっくらとしている。
「これを私に?」
コクリとうなずくナナコ。
「私たちのクラス、さっきまで調理実習でパンを作っていたんです。それで、ナナコちゃん、ムツミさんの昼食用にってこちらを作ったんですよ」
それで今日は弁当がなかったのか。オヤジのやつ変な気を利かせやがって……。これが俺の昼飯というわけか。
ナナコの方を見やると上目遣いでこちらをジッと伺っている。
恐る恐る俺はパンの先端にかぶりつく。何回か噛み締めると、ほんのりと微妙な甘さが口に広がる。素朴な味のミルクパンだ。噛み締めるたびに、何だか口の中が妙にぱさつくが、食べられないことはないので、俺はもう一口、今度はさっきよりも大き目に口を開けてパンを噛み千切る。
「ん?」
歯がパンの柔らかさではない感触をとらえ、ビックリして喉を詰まらせる。
目を白黒させている俺に、由愛が素早い動作で水筒の飲み物を差し出す。
俺は渡された水筒のカップを一気にあおる。せっかくの良い香りの紅茶が、異物を押し流すため食道を駆け抜けていく。
「くはぁ~」と大きく息を吐いて呼吸する。
死ぬかと思った。こんなもの、眠り病どころか、永眠するっての。
「何これ?」
俺は口内に残っている何だか微妙な食感を確かめながら、手に持ったパンの断面を覗いた。そこには、柔らかなパン生地に囲まれるようにして、ねっとりとした白い物体がこちらを向いていた。
「バナナ……パン……だ」
冷静なナナコの返し。
「バナナパン?」
俺はガジガジと、ホットドックをかじる要領でパンに包まれたバナナを消化していく。
甘いような、しょっぱいような、酸っぱいような、何だか良く分からない感覚。率直な感想としては、パンとバナナの味しかしなかった。それだけなら特にマイナス要素がなさそうだが、悲しいかな食感があまりよくない。市販品ほどではないにしろ、適度にふわふわのパン生地にネチョネチョとしたバナナが絡みつき、悪い意味で絶妙な食感を生み出している。はっきり言って、バナナとパンを別個に食べた方が数段マシだと思う。
「バナナ、パン……ね……」
首をかしげる俺に、
「まるごとバナナパン……だ」
ナナコはなぜか改名する。
「う、うん……」としか言えなかった。
美味い! と手放しに褒めるにはかなりの下駄を履かせる必要がある。とは言え、ナナコが初めて作ったパンだ。ナナコに反骨心があるかどうか分からないが、素直な感想を口にするのはためらわれる。良いお姉さんとしてどう答えるべきなのか思案を巡らせる。
「ま、まあ、悪くないけど、次はバナナと一緒に生クリームとか入れるといいかもね?」
俺は精一杯の笑顔でその使命を果たす。「ははは」と笑うが、若干作り笑顔が引きつる。そんな俺の心の機微に気がついたのか、
「良かったら、私のも食べてください」
由愛が、スカートのポケットから綺麗にラッピングされた小袋を取り出した。
袋の中身は、国民的アニメの『となりのトロロ』の形をしたクッキーだった。
人肌に温まったクッキー。勧められるままに耳の部分を一口かじる。
舌先にクッキーそのものの優しい甘みと、ビターチョコのマイルドな苦味が口いっぱいに広がる。どうやら、耳を含んだ上半身の茶色の部分にチョコレートを練りこんでいるようだ。白いお腹の部分は、やや膨らみを持ったサクッとしたパイ生地になっている。加えて、そのパイの中に甘酸っぱいイチゴジャムが隠されていて、良いアクセントになっていた。
「うわっ! おいしい……」
思わず口を付いて出る感嘆。
大量生産で作ったお菓子のような、ただ砂糖に頼っただけの甘ったるい感じではなく、ベースとなるクッキーの甘みに、チョコとイチゴを組み合わせた上品な甘さが俺の好みに合っている。
「かなり手が込んでるわね。作るのに随分時間がかかったんじゃない?」
「いえいえ、そんな大層なものじゃないですよ。これで三十分くらいですよ?」
「へぇ~。凄いわね」
この年でかなりの料理の腕前だ。オヤジといい勝負が出来そうだ。
「趣味は、お菓子作りとか?」
「趣味ってわけではありませんが、お菓子や料理を作るのは好きですね」
「好きこそものの上手ってことかしら?」
なんてことを言っている内に、無意識に小袋の中身を食べ尽くしてしまう。
「あっ、これ全部食べちゃって良かったのかしら?」
「もちろんです。そのために作ったんですから。まだありますけど、いかがですか?」
由愛は、さっきとは逆のポケットから同様の小袋を取り出す。
「いいの?」と言いつつも、内心もっと食べたいという素直な欲求には抗えず、それを受け取った。だけど、流石に独り占めするのは気が引けて、ナナコに勧める。
これを機に、本当においしいものに触れて欲しいという目論みに反し、
「大丈夫。さっき食べた」
由愛もうなずいているので、本当だろう。しかし、あのナナコが俺の勧めを断ったことにちょっとした驚きを禁じえない。
ナナコは下腹部に手を添えさするような動作をしている。
「どうかしたの? お腹痛い?」
「痛くない」
由愛の心配に、いつもの落ち着いた声色で返すが、ナナコの様子はどこか上の空に見えた。
「そぉ……?」
由愛と顔を見合わせて、二人で目をしばたたかせる。
「だけど……」
腹部をさまよっていたナナコの左手が、スッと控えめな下乳をなぞり、世界一低い山の頂上部辺りで動きを止める。その動作をトレースするように右手が、同じく右山頂部で動きを止めた。
「だけど、何だかこの辺りがムズムズする」
そう言うと、おもむろにナナコは両手で自身の胸をワシワシと揉んで見せた。
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