レンズ
「いったい、この人はいつまで寝ているのでしょうか……?」
柔らかな夕陽に照らされ、教室の机で眠る彼女はまるで赤子。腰まで伸びた黒髪は光を反射して玉虫のように輝く。耳をすませばすうすうと寝息。私と同じ十七の女子というに、その身長はクラスの男子殆どよりも背が高いのです。私よりも頭一つ二つ背が高い。学習机に突っ伏して居眠るその様は大変に窮屈そうに見えます。よくもここまで熟睡できるものだなあ、と私は感心しながらも待ちくたびれているのでした。
「もうすぐ六時、か」
彼女の前の席──まあ私の座席なのですが、授業が終わってからのおよそ一時間半、私は彼女が目を覚ますのを待ち続けています。机にはハンカチを広げ、くしゃくしゃにひしゃげた彼女のメガネを乗せて。
そう。彼女のメガネを壊してしまったのは何を隠そうこの私。床に落下したそのメガネに気付かず、いつものようにぼぅっと歩けば足元からは嫌な感触。くしゃっ、ぺきっ。それはまるで昆虫の死体を踏み潰してしまったかのよう。恐る恐る目線を向ければ見るも無惨、レンズは砕け、フレームは折れ曲がり、右耳のテンプルは真っ二つとなっておりました。もはや角ばったメタルフレームのメガネであった面影はなく、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
誠意ある謝罪をしなければならないでしょう。だから私は彼女を起こすことなどせず、ただただ、彼女が自然に目覚めるのを待つに至るという訳でございます。しかし。
「くしゅん!」
夕陽の熱量は私には優しすぎました。身体が冷えてしまったようです。込み上げるくしゃみを留めることは出来ず、体外に放出してしまいました。彼女を起こしてしまったでしょうか……? もぞもぞと彼女は顔を上げて。
「……ん。あれ……?」
「おはようございます」
「おはよう、ございます?」
薄目で教室を見回す彼女。私の存在は意外なものだったのでしょう。目が合うと彼女の瞳が少し大きく開くのが見てとれました。口元からはよだれが一筋煌めいておりましたが、彼女は意に介することなく目線を下げます。メガネを探しているのでしょう。私はおずおずとハンカチごと彼女にメガネだったものを差し出します。
「ごめんなさい! 私が不注意で踏んでしまって……」
「ああ、なるほど」
寝起きでどこまで理解に及んだのか。彼女はうんうんと目を瞑って頷きます。そしてゆっくりと口を開きました。
「謝るために僕が起きるのを待っていたというわけか。無視して逃げたって犯人はわからなかっただろうに」
「悪いのは私ですから。謝らないといけませんし、目の悪い人を放置して帰ることも出来ません。危ないですから」
「危ない?」
不思議そうな顔の彼女。しかし直ぐに手を叩き、くつくつと笑いながら言いました。
「別に、僕は視力が悪くてメガネをかけているわけではないよ」
「伊達メガネということですか?」
「言葉の定義ではそういうだろう。だが、僕がレンズ越しに観測するのは、世界を直視したくないからだ。それは伊達でも酔狂でもない」
「直視したくない?」
「見たくないもの、嫌なものが世界には多過ぎる。レンズという壁を隔てて傍観者たることが僕には丁度いい」
そんなことを私は考えたこともありませんでした。のんべんだらりと何も考えずに生きてきたのだなあ、と私は自戒しました。
「君を──」
「え?」
「君を直接見たのも初めてかもしれない」
前の席に座っているのに、と彼女は付け加えました。深い黒の瞳はまるで宇宙に空いた大穴のように私の視線を吸い込みます。
「ではどう思いましたか? 私という存在を直視して」
「ちゃんと謝ることも出来る、僕を心配してくれる。責任感のある優しい人だと知れたかな」
ありがたいことですが、私はそこまで言われる程の人間ではありません。そう、彼女が知ったことは今日の私のおおよそ半分。私が彼女を待っていた理由はもう一つ。
「メガネは弁償します。それとは別に、迷惑を掛けたお詫びとしてハンバーガーでも奢らせてください」
「ジャンクフードは食べたことがないんだ。身体に悪いイメージがあるから」
「それはまさに色眼鏡。私は幼い頃から、おまけのおもちゃ目当てでジャンクフードはしょっちゅうです。ところがどっこい、私は元気」
「ふむ、身長は伸びなかったようにも見えるが」
むう。彼女から見れば確かに私はちんちくりんでしょう。しかし、私は怯みません。
「メガネを外して、五感で世界を直接感じてみませんか? ジャンクフードもそんなに悪いものではないかもしれません」
「そうなのかな、そうかもしれない。メガネが壊れたのも何かのご縁か。御相伴に預かっても?」
私は彼女の手を取り、指を絡めてエスコート。彼女を世界に連れ出します。
「手を繋ぐことも必要なのかい?」
「ハンバーガーも世界も。そしてこの私も。貴女に五感で知ってほしいのです。その目で、その手で、その耳で。私を知ってください」
なるほど、そう言って彼女は私の手を強く握り返してくださりました。